いじめられる人間が悪いという言葉は最低な人間の責任転嫁

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現在進行形でいじめを受けている人間やいじめ後遺症に苦しみ普通の生活が送れなくなった人間にかけられる言葉にこの様なものがある。

「いじめられる方にも問題がある」

私はこの言葉を実際に言われたことが何度もある。私はこの言葉、いじめという名の犯罪を犯した人間がいじめを受けた側である責任逃れや責任転嫁のために作られた言葉だと思っている。私は、たとえいじめの原因が何であってもいじめをしたことによって被害者側が精神を壊してしまえば人間一人の人生を破壊することには変わりないと私は思うからだ。今回はこのいじめ被害者にも問題があるという言葉について私の考えを語っていこうと思う。

主ないじめの原因について考察してみる

いじめられる方にも問題があるという言葉はいじめられる人間に問題があるということであるため、まずはいじめられるであろう原因とそのことに対する私の考えについて挙げてみる。

いじめに繋がる主な原因

運動ができないが勉強はできるもしくはできない → 人の得意分野はそれぞれであり、同じ人間はいない。よってこの理由でいじめをする場合、いじめの正当化と変わらない。

性格が暗い → 上記の運動神経と同じ。この場合性格が内向的で暗いやつは社会に適応できないから矯正してやっているという意見もある。その影響で性格矯正が行われるとネットの質問サイトなどで昔の自分と同じような奴につっかかるキチガイになり、間接的に問題を起こすようになる。これもいじめの正当化。

障害持ちで迷惑をかける → これは障害を認めたくなかったり、意地でも普通学級に通わせようとする親側やその欲求を飲んでしまう学校の問題であることが多い。だからと言っていじめを正当化する理由にはならない。世話係を押し付けられて荒れたという意見もあるがその場合恨みを向ける対象になるのは世話係を押し付ける教師だと思う。

一般から見て気持ち悪い趣味や性癖を持つ → 一般から少しでも外れた趣向を持つからと言って必ず犯罪を犯したりするということはないので悪行の正当化にはならない。そもそも人の世界を非難する人間は自分の考えを持たないろくでもない人間であることが多い。これはいじめだけでなく迫害の正当化でもある。

不潔 → 毎日風呂に入っていても寒かろうが汗をかく発汗体質の場合、シートで拭こうがスプレーをかけようが次々と汗が流れ出てしまえば意味がない。最低限の処置(毎日風呂に入る、汗への対策)をしてもどうしようもない場合は、言葉の通じない別の生き物だと思って虐めてくる連中とかかわらないようにした方がいい。

体系が太い → 体系が太いと醜い、健康管理ができていないクズという暴言を吐く人間がいるが、体系が太いから犯罪ということではないので太いからいじめるというのはいじめの正当化である。いじめられたくないなら痩せろという意見もあるが、それは遠まわしにみんな痩せてるんだから俺たち(の考え)に合わせろと脅しているようなものである。

不細工である → これも体系の部分と同じ。人の特徴を指していじめをするのは最低の行為である。特に顔は整形しないかぎり変えられないものである。不細工でいじめられた人間は性格も歪む。大人になると醜くなった性格面もさらに非難されるのだから生きる気力もなくなっていく。これもいじめの正当化と言える。

元々いじめをしていた → これはさすがにどうしようもない。だが、いじめでやり返すことをするということはいじめをしていた人間と同じぐらいの最低であることは頭に入れなさい。

 いじめられる方が悪いという言葉に対して私が思うこと

上記のいじめられる原因といじめられる方が悪いという言葉を照らし合わせると、いじめられる方が悪いという言葉はいじめを正当化したいがために作られた言葉なのだろう。

以前も何度か言っているがこの世は多数派のために作られた社会である。いじめられる人間よりもいじめをする人間のほうがはるかに多いので、上記のような何かしらの理由をつければその意見が肯定され、いじめられる人間は悪として扱われるのである。

だが、いじめを受けた経験があり、二次障害と過食を患った私はあえてこういう。

人の欠点をあざ笑ったり先に手を出しておきながら、とがめられそうになればいじめられる方が悪いなどという言葉を使っていじめを正当化し、責任転嫁をするやつは最低の人間だ!

人との違いを批判し、いじめ正当化をする人間などろくな人間ではない。私はそう思う。

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