いじめを受けている人間に向かってよくこんな無責任な発言をしている奴を見かける。
「死ぬぐらいなら戦って見返せ!」
・・・私はこの意見がすごく嫌いである。人間には様々な性格のやつがいるのと同じで相手と争ったり戦うこと、暴力をふるうことが嫌いで、戦うぐらいなら死んだ方がいいと考える人間もいる。生に普通ほど執着していない人間だっているのである。現に私もそうであり、未だにいじめ連中の声が鮮明に聞こえてくることがあるので、死んだほうがよかったのではないかと未だに思うのである。今日はそんなことについて書いていく。
なぜ人間は死ぬぐらいなら戦えと安易に言うのか
いじめなどを受けているときに周囲の人間が死ぬぐらいなら戦えというのは、
事なかれ主義がまかり通っているこの国にとってはそっちの方が都合がいいからである。
いじめ被害者がいじめに耐えて強くなれば自殺者は出ないことになるし、被害者がしたたかになり強くなることでいじめの思い出を忘れるもしくは気にしなくなり、社会への適合も問題なくできるようになるからである。
それに加え、いじめと戦って乗り越えたというのは美談になりやすい。そのような背景や強くなること=立派という考えも手伝って死ぬぐらいなら戦って乗り越えろという意見が生まれていくのだろう。
だが私から見ればそのような発言を安易にできる人間はいじめにあったことすらない、もしくはいじめに合わず済んたのんきな日和見主義者が大半なのではないだろうかと思う。いじめにあっている人間というのは、傍観者から見た場合でも気持ち悪く映ることが大半だろうし、できればいじめの現場に関わりたくないのは私でもわかる。
しかしだからと言って、安易に戦えなどと煽るような言葉をぶつけるのはいじめ首謀者と変わらないことを分かってほしい。すべての人間にいじめ乗り越えられる力、嫌な記憶を忘れられる力、ばねにして将来社会に適合できる力が備わっているわけではない。人間は闘争心の強い個体ばかりではないはずだし、逆に争いが嫌いでいじめの仕返しだってできないという心優しい人間だっている。
そんな人間を臆病だの腰抜けだの豆腐メンタルだの言っているような人間は一度いじめの苦しみを味わって精神を壊してから出直してほしい。あの苦しみはいじめを受けたこともなく平気で強くなれと言っている人間に想像で補えるほど甘いものではない。全員が乗り越えることができ、立ち直れるのであれば恨みや憎しみなんて言う概念は今頃存在しないはずである。
そこまで言っても、戦え、戦わない奴は生きていけないと主張する奴らは本気で自然界に帰れと思う!闘争心や攻撃性の低い人間は一定数存在するし、強くなれという考えを押し付ける行為は普通の考えの押し付けと何も変わらない!
ここまで読んでそれならどうすればいいんだよという人もいるだろう。そのことに関してはまた後日書こうと思う。