私は以前から自分も含めた人間があまり好きではないと言っていることが多いが、その根底には「人間は一部の考えの合うもの以外とは分かり合うことができない」という考えがあるからである。人間は異なる考えを持つ相手にぶつかると対立関係となり、分かり合うことはできなくなってしまう。それに加え、対立しあう意見を持ち、常に口論になってしまう人とは長くいることも苦痛になってしまうだろう。
私が人間とは分かり合えないと思ったきっかけ
私が人間が分かり合うことができないと思うようになったのは男と女の間にある私自身が”性別の壁”と呼んでいるものに気づいた時である。男と女の関係は小学校のころはどれだけ仲が良かったとしても、中学生頃に思春期特有の性的な発達によって疎遠になったり対立してしまったりする。
それに加え中学に入るとほぼ全員が良い高校に行こうと成績の上昇に乗り出し勉学に力を入れたり、運動が苦手だった人間が部活動を始めてインドア傾向からを脱却したりと変化を求めて色々なことをする生き方を選ぶことが多い。そんな環境で私は変化を求めずに自分の好きなものを貫く生き方を選んだ。その影響で異分子扱いされた私はいじめを受け中学は誰とも分かり合えない時代を過ごした。
中学卒業後も私は迫害を受け続けたが、それでも成人ぐらいになれば同じような考えの人に出会えると思っていた。しかしそんなことはなかった。
似たような考えの人間はいるものの、深い友人関係になると食い違う人が多かったのである。
例を挙げるとアニメオタクと言われる人の大半は娯楽や物語を楽しむためにアニメを見る人が多いが、私は登場する女子キャラクターを性格の研究、分析や自分の創作のための参考としてみることが多いので深い付き合いになると意見の食い違いが多くなってくるのである。私の周辺の考えが似通っていた人間は時がたつとオタクから脱却し、私の考えとかけ離れた存在になっていたり、付き合いを深くしていくうちに私の考えが深すぎて気持ち悪いと言われ、ドン引きして去って行った人間が多かったのである。
その後も作業の遅さを非難されたことや酒が嫌いという考えを異常扱いされたり、オタクは犯罪者予備軍というメディアの偏った報道などを見ていくにつれ次第に私はほかの人間とは分かり合えないという気持ちが芽生え、それがいじめを受けていたころのフラッシュバックと連動して人間が嫌いという考えが生まれるに至った。
自分の考えを貫きたいなら理解されないと思った方がいい。
私は発達障害が分かってから、この世界は様々なことに共感できる多数派の考えを持つ人が生きやすく作られていることを知った。理解され、受け入れられたければ多数派に考えを合わせるか、合わせるまで行かなくても演技をして、異常ではないように見せるしかない。
私は自分を偽って生きるのが非常につらく、演技をして生きているが苦痛でしかない。それなら自分の考えを貫き他人とは分かり合えないと考えたほうが楽なのではないかと思うようになった。そもそもこの世界は何をやっても批判がつきものである。付き合って裏切られるなら最初から誰からも理解されることはないと思った方が幾分も楽だと私は思っている。周囲と考えが違って苦しんでいる人はこのような考え方を持つことで楽になれるのではないだろうか?