クラスメイトの事を安易に友達と表現するのっておかしい

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皆さんは学生時代に

クラスメイトのことを”友達”という表現で聞いたことはないだろうか?

私はこの表現がどうもしっくりこない。クラスメイトというのは単にクラスが同じになった同級生の人間というだけであって、それを友情すら築いていないのにもかかわらず、友達という表現で扱うのはどうなんだろうとしか思えないのである。

みんな仲良くという考えが子供を締め付ける

子供の中には人間とかかわることを苦手としている子も当然ながら存在している。私もそうだった。しかし教育ではそれを認めずみんな仲良くという考えを推している。

そんな考えを見るだけで現代の教育が事なかれ主義であるのがよく分かる。私はこの考えが生み出す弊害を実際に体験したことがある。それが以下のものだ。

・万が一子供の間で争いが発生した場合、喧嘩した2人のどちらにも着かず、再び仲を取り持とうと行動する。その結果、2人が仲直りした場合高確率でなぜか取り持とうとした自分が迫害の対象になる。

・人間の相性(合う合わない)を理解できなくなる。人間は等しく仲良くなるもしくはなれると信じるようになる。

・人間は誰でも話し合いをすれば分かり合えると思ってしまう。本来は話が通じない人間なんて山のようにいるというのに。

人間、特に善悪の区別をつけづらい子供は残酷なものだ。男は自分の地位を守るためにクラスのボスと言える腕っぷしのいい奴の元につき媚び続ける。女は友情があったとしても次の日にぱったりと終わり、そこからいじめが始まることだってある。そんな状態を何度も目にしてきた。子供が純粋だなんて目が節穴な誰かが勝手に言った嘘っぱちだとしか思えない。

道徳の授業で人間の感情や思考や命の大切さを教えろ

皆さんは道徳の授業を受けたことがあるだろうか?人の気持ちや感情と言ったものを分かりやすく描いた物語がいくつも載っている教科書を使って、教科書の物語を読んだ後に登場人物の感情をや行動について話し合う授業である。

私が学生のころは少しであったもののまだやっていたのだが、ここ数年だと道徳の授業は普通教科の時間を多く確保するためにないがしろにされていたらしい。私はいろいろ書いてある話が気になったので勝手に一人で読んだりしていたが、あの教科書では同時に命の大切さを伝える物語も多く取り扱っていたように思う。

国語の教科書に乗る話は文章を読む力や読み取る力を育むための小説などが多いが、道徳の教科書に載る話は良いことや悪いこと、命の大切さ、いじめが悪い、人間の感情を題材にした話が多い。厳密には道徳の時間ではないが薬物防止講習やネットいじめなどの講習にも同じような側面があると思っている。

道徳は、人間にとって思いやりなどの人間として大切なことを教えることのできる、五教科と同じぐらい大切なものなのではないだろうか。そんな大切な教科をないがしろにしていたのだから、現代という人間の心の余裕のなさも手伝ってなのか、他人の気持ちを考えない余裕のない子供が増えているのだろう。

クラスメイトは友達にならない限り”知り合い”だ

私はクラスメイトというのは

友達にならない限り知り合い止まりの存在だと思っている。

大嫌いだよただの知り合い程度の奴らを友情を築いてもいないのに友達と表す表現は。けんかを止める時も仲直りしなさい友達でしょうがという表現が使われることが多かったような気がする。私は暴力嫌いなので言われたことはないが・・・

人間なんかよっぽど相性が良くなければ分かり合えるはずなんてないし、何よりクラスという箱の中で集団行動について行けず逸脱していることの多かった私からすれば、そんなに助けてもらうどころか教員も含めて集団に溶け込めないことを責められることの方がはるかに多かった。私は出来る限りは教員に信頼されるような良い人間でいたはずなのだが・・・

私は教員にとって所詮手のかからない都合いいだけのどうでもいい存在だったのかもしれない。逆に私に何かしらできないことがあればクラスメイトにもすごく怒られたから。世の中には理解しあえるクラスメイトや教員もいて、信頼関係を築けるのはそういう相手とだけなのだろう。

私はこれらの事からも、ただクラスが同じだけの人間や教員など所詮知り合いに過ぎない。友達でない相手を友達だと言うより先に道徳などを通じて人間の感情や思いやる心を教えたりしていじめの防止などの対策をしたほうがいいと私は思うのである。

仲良くできないのなら無理に仲良くしなくてもいい。そんな考えもこれからは必要になってくるのではないだろうか?

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コメント

  1. カコノカコゾウ より:

    私自身も同感です。そのような考えには今現在でもたまに頭の中で苦しんでます。
    小学生の時はそんな感じはせず、中高校が一番苦しかったです。ブログ記事の内容のように相性が悪い人や体育会の人も多く、時にはある男性や女性のクラスメイトと仲良くしてたら「お前ら同性愛者だな」とか「付き合ってるな」とふかすアホな連中もいました。
    自分自身、最悪に恐れていたのは、いくつかのブログの記事拝見させていただきましたが、その記事のように何か問題おこせば、もしくは自分のミスで負けてしまった際、例えば体育祭とかグループの行事や修学旅行や部活などがいい例ですが、「あなたのせいで〇〇になったじゃないか」とか「負けたじゃないか」などと責められ、
    自分はクラスメイトは皆友達どころか、自分はクラスメイト皆の敵となり、学校に行くのが怖くなるでしょう。
    私も管理者様と同じく道徳の授業は大切だとおもいます。
    改めてこのクラスメイトについての考えには恐ろしく感じました。

    • zyoken より:

      カコノカコゾウ様 コメントありがとうございます。遅くなってしまいすみません。
      特定の相手と仲良くしているだけで色恋沙汰に勝手につなげて茶化す人間って必ずいますよね。私もそういった人間にそういうことを言われた経験あります。性別が同じでも違っても考えが近いから友人として一緒にいる。そういう場合が圧倒的に多いはずなのに。たぶんそういった人間は悪い意味での恋愛脳というか・・・人間は恋愛して当たり前と考えている人間なんだと思います。
      お前のせいで負けた体育祭で私も何度も経験しましたね。ああいうイベントはなぜか皆熱心になりますからね・・・私にとっては練習すら地獄で別の記事にも書いてありますが特に組体操で太い体系ゆえに力もないのに矯正で土台役をやって苦しんでました(私が太いのが悪いんですけどね)。ですがどのイベントでも最終的にはお前のせいで負けたと責められた記憶しか残ってないですね・・・こういった無意識の敵意を生まないようにするために思いやりや人との違いを理解する必要性があると思うので、道徳の授業は必要になってくると感じています。