皆と好みのものが違っても被っても気にしなくていい

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私は外食するときに注文した料理や同じグッズやゲーム機を買った時の色などが一緒にいる誰かと被ってしまうということ・・・つまりは誰かと同じになってしまうことが好きではない(例外として別の誰かと推しキャラが被るのは全然問題ないが。そんなこと言ってたら誰も推しにできなくなるので)。

こうなってしまったのも考えを合わせることを強要された時に不快感を感じて、それを強要され私自身を否定されたことで、嫌になってしまったからである。今日はそのことについて書いてみようと思う。

合わせることが苦痛な人間もおるんだよ

この国の人間は絆という言葉を用いて何かと一致団結することは多い。それはいいのだが、その中で同じ行動ができない人間を排他する傾向を感じたことはないだろうか。

・これぐらいできないなんてお前はおかしい

・これができないと社会でやっていけない

・お前も○○(やらされていること)すると楽しいよな?

みたいな言葉とセットで何度も・・・嫌に決まってんだろ糞がと心の中ではずっと思っていたがそんなこと言えばいじめが悪化するので言えるわけがない。

こういうことを言われるようになってから世の中に認められていたり、大衆が好むものに対して嫌悪感が出るようになった。野球とかは今でも好きじゃないし、サッカーはイナズマイレブンに出会わなければ嫌いなままだっただろう。例外として自分が見たりして楽しめたものは大衆が好むものでも例外であり、嵐を中心としたジャニーズとドラマは好きだ。

私は女子キャラしかいないんだという気持ちも生まれ、徹底的に女子キャラに詳しくなってやろうと思ったことで今現在の私が形成された。しかし、女子キャラでも好きな作品がメジャーになってると離れてしまうことも多いので、この件のダメージが大きく残っているのだろう(本音を言うと人間が増えることで変な人間が紛れ込み、界隈が荒れてすぐに戦争が起こるから嫌なのだが)。

このサイトに書いている推しキャラたちだって私がアニメ化前の事前調査や放送開始後の作品を通じて全員を見て厳正なる審査の結果選んだというだけである。別の子が好きな人だっているだろうし(自分から見て不快感を感じる行動をとった子を除いて)あまり悪く書いているつもりはない。

同じが嫌は自分の考えを大切にできる人

ただ、この同じ、被るのが嫌という考えは悪いことばかりではないともいえる。

この考えを持つ人間が他人の意見に流されず、擬態しなくても自分の意見を主張できる、つまり自分の考えを大切にできる人間であるという見方もできるのではないだろうか。

多数派の意見に同調し、流されるように生きればある意味では楽に生きることができる。しかし、その反面自分の意見に蓋をして自分の判断では間違っているということにも同調しなければならなくなるので、自分の本当の気持ちとの間にずれが生じて辛くなってしまうこともあるのである。

私はそうなって辛くなるぐらいなら、自分の気持ちを大切にしようと考えた。それをきっかけに誰かと同じことが嫌いになってしまった身である。私が尊敬する円堂キャプテンも格言の一つで以下のようなことを言っている。

「自分の大好きなものに嘘をつくな!」と。

ちょっと話がずれてしまったが、私が言いたのは皆と趣向や違うことを悩んで気にする必要はないということである。自分の好きなものが大衆と被ったとしても、大衆から好まれなかったものだったとしても自分の好きなものを信じよう。現に私はそうしているからさ。

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