障害が個性であるというのなら悩み苦しむ人間はいないはず

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私は障害は個性であるという言葉にあまり良い思いを持っていない。そもそも障害が個性であると認められているのならば能力云々で攻撃してくる人間なんていないはずだし、障害を持っているからうまくいかなくて辛いと悩み苦しんでいる人間いるのはおかしいと思うからだ。

実際「普通」の人間の大半は同じように行動できない人間をものすごく批判し、時にはいじめて気味悪がる。そして彼らは人を傷つけておきながら何の罪にも問われることなく普通に暮らしていく。逆にいじめられた方は精神を破壊され、再起不能になって自殺してしまう場合もある。そして批判した奴らは死んだ奴が弱いと言って開き直る。こんなことが黙認されている今の日本でならよく聞く多様性を認めろと言っている人間が出てきたって全然おかしくないだろう。

単に殆どの人間が認識できる普通の範囲が狭いのだろう。オタクと言われる趣向だって宮崎勤の事件でマスコミに踊らされた連中の考えが今でも深く根付いているからそう言われるのであって、事件以前はそこまで気持ち悪いだの社会不適合者だの言われるほど問題のあったジャンルではなかったかもしれない(私が現代生まれである以上真実を確かめるすべはないが)。

今日は障害は個性という言葉について私が思うことを書いていく。

障害が個性であるのなら苦しんでいる人はいないはず

個性と言っても社会にはまれず、気味悪がられる人間は苦しむ

そもそも障害というのは何か活動を行う時に、その活動の妨げとなるもののことを言う。例を挙げると

・マルチタスクがこなせない=作業をしながら来客などへ受付する必要のある一般事務の仕事が難しくなる。

・力(筋力)が全くない=50kg以上のものを傷つけないように運ばなければならない引っ越しの仕事が難しくなる。

などがある。こんなの慣れれば誰もできるよなんて言うあなたは今まで何事もそつなくこなせることのできた普通の範囲に収まれる人間なのだろう。そうでなければ普通にできるはずの事ができなくて苦しんでいる障害持ちの人間に障害は個性なのだと軽々しく言えるはずがない。

私は少なくともこれまで人間の世界に溶け込めるよう様々なことを試してきた。学校もどれだけいじめを受けようと休まず行ったし、信頼できない人間に囲まれて辛い状況で精神がどれだけすり減っても仕事に応募し続けた。しかし、何かにつながる結果を得られたことは全くなかった。こんな状況を見て大半の人間は努力が足りないだの方向性が間違っているだの、私を甘えてばかりのクズだというのだろう。

障害が個性などと軽々しく言える人間のは普通の枠にはまれた人間か、自分の持っている能力を運よく引き出せた人間なのだろう。

障害が個性なら悩み苦しむ人間はいないはず

障害が個性であるのなら、すべての人間が障害特性を個性として受容しているわけであって、批判したり、なぜお前はこれぐらいのこともできないんだと怒鳴り散らす人間がいるのはどう考えてもおかしい。

同じように障害を持っている人間側も私は普通の人と同じことができないし、強みと言っても社会に直接役立てるものではないから実質は無能で批判されてばかりで苦しいという感情が湧き上がるのもおかしいわけである。

なぜなら、障害は個性ということが認められているのならすべての人間がこの人はこういう特性があるから自分が普通にできることでも難しいんだなと理解しているはずだからである。

しかし、現実はどうか。改善の仕方も明確にされていない上に治すこともできず、仕事ができないことで自分を責め続け自責の念で苦しんでいる人間もいれば、逆に悪い方向に考え、人間に憎しみを抱き殺人に走ってしまう人間がたくさんいる。

だからこそ私は障害は個性なんて軽々しく言えることがありえない。個性として受容されていないのならそんな言葉使うのやめてほしいし、私のような二度と前を向くことができなくなってしまって、悩み苦しんでいる人間がそれで救われるわけではない。

私はこれまでの人生で良い人間にはほとんどであったことがないし、精神科の事も信用できなくなってきたので人間がと分かり合うことなんて無理なんだろうなと強く思うようになってきた。やっぱり私には女子キャラしかないんだと思える。

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