私が思うコミュニケーション障害の定義

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コミュニケーション障害。それは、近代になってから上手に会話や連携の取れない人間に向かって張り付けられるようになったレッテルであると思う。人とうまく話せない、人の気持ちが理解できない、話すときに詰まってしまう。そういった場合にも使用される。

だが、私はコミュニケーション障害という言葉が一人歩きしているような思いを感じてしまうのである。なぜなら、元々話すの大好きだった、友人がたくさんいたなどと言った場合の人間が精神的な攻撃を受け人間が嫌いになったり、うまく話すことができなくなった人間にも用いられる。今日は私がコミュニケーション障害という言葉について書いていこうと思う。

コミュニケーション障害と決めつけられた人も多い気がする

コミュニケーション障害だと診断される一番の理由はなんなのだろうか。私が思うにそれは

周囲の人からの決めつけだと思う。

あいつとは話が通じない、何考えているか分からない、だからあいつはコミュニケーション障害だと自分の範囲内で勝手に決めつけられている人って多いような気がする。自分ができるからお前もできないとおかしいできないお前はコミュ障だと決めつけられた人も大気がする。

私自身も一部の友人を始めとする周囲からはコミュニケーション障害扱いされていたのだが、本当に自分がコミュ障に該当するのかを考えてみた。そこで私が出した結論としては

自分と大多数の人間は考え方が違うから向こうに勝手にコミュニケーション障害扱いされただけなのではないかという答えが出た。

実際私はほぼすべての人との会話に詰まったりするのかというとそうではない。信頼している人間や自分に危害や暴言による攻撃を加えない人間とは普通の話すことができるし、障害枠の面接ではあまり対応に詰まったことがない。逆にいじめ連中や理解のない人間たちとは暴言を吐かれたり、説教や暴言による攻撃の可能性があると思って身構えてしまい話しづらくなる。だが、人間が嫌いであることには変わりないので一般的に言われるコミュニケーション障害の範囲に当てはまっているのだろう。

それにコミュニケーション障害は人に興味がないからそうなると言われていることが多い。私もいじめにあったせいで人間への興味を失った口なのでそれはわかる。だが、どうでもいいものに今すぐ興味を持ちなさいなどと言われてもそれはできることなのだろうか?少なくとも私は無理である。人間は理解できないものや事には嫌悪感や拒絶反応を示す生物である。それが集団になると虐めに発展したりするのだろう。だが、私はここで言わせてもらう。

理解できない事に拒絶反応を示したり、相手の原因をいじめや説教、暴言で解決しようとする人間もコミュニケーション障害に当てはまるのではないだろうか?

私からすればいじめ加害者や拒絶反応を示す人間はコミュニケーション障害にしか見えない

そんな考えを持つ私から言わせてもらえば、いじめ加害者のような集団暴力でしか問題を解決できない人間や、特定の物事に対して拒絶反応を示すやつもコミュニケーション障害に当てはまるのではないかと思う。

私が思うコミュニケーションができる人は誰とでも話し合いをすることができ、例え嫌いである物があっても嫌悪感を示さずに接することのできる人間だと思う。友人が多いとか、遊びができるとかそういうことができる人間がコミュニケーション抜群であるという考えには私は同意できない。そういうのはただ人間関係をやり過ごすのに長けているだけだ。

私から見れば現代になって集団による連携が重視されるようになったあまり、コミュニケーション障害という言葉が独り歩きして話の通じない人間や話に詰まってしまう人間に対して当たり前のレッテルとして貼り付けられてしまっているような気がする。

だが、話が通じない、話に詰まるからで勝手にコミュニケーション障害のレッテルを貼るのはあまりにも安直だ。私の定義からすれば暴力や説教で問題解決をしようとする短絡的な人間や勝手に決めつけをしてレッテルを貼り続ける人間の方がよっぽどコミュニケーション障害ではないのだろうか。そういう奴は相手の表面しか見ることができないのだから。

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