人間は却下と否定をされ続けると自分の考えを言いづらくなる

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人間というのは誰しも自分の意見を持っていると私は考えている。自分の意見なんか持ったことなんてない!という方もいるだろうが、そういう人たちは知らず知らずのうちに意見を否定されたり抑圧されたりした結果言えなくなってしまったのだろうと私は考えている。

というのも私は自分で意見を言ってもそれはおかしいだの、面白くないから却下だの言われてきた身なのでこのサイトを作るまではほとんど自己主張なんてしたことがなかった。なので今回はそのことについて書いていく。

自分の意見を言えなくなる原因は意見切り捨ての積み重ね

例えば意見を話し合う場があったとしよう。その最中に自分の意見を言ったとする。その時に

・それ面白くないから却下

・ありえない

・もっとまともな意見出してよ

などといったことを言われたとする。ふざけて言った意見だったのであればこういわれても仕方ない部分もあるのかもしれない。だが真面目に考えて意見を発言した場合で、一度ならまだしも何度も同じように意見を言うたびに切り捨てられる経験をしたのであればどうだろうか。そんな経験を繰り返し積み重ねるうちに

もう自分の意見なんか誰にも相手にされないのだから、自分の意見は飲み込んで周りに合わせて黙っておこうと考えたりしないだろうか。

これらの経験から私は自分の意見を言っても却下されたり、それはあり得ないからダメ、そんなに自分を貫きたいなら1人でやれなどと言われてしまえば誰だって自分の意見を言いづらくなってしまうだろう。そしてこのような対応が繰り返されると最後には自分の意見を持っていたとしても言いづらくなり・・・その結果以下のように

・私も○○さんと同じ意見だよ。

・私も○○がいいなぁ。

・私は特に思いつかないから皆の出してくれた意見から決めよう。

・私はなんでも構わないよ。

などと自分の意見を飲み込んで自然にそう言うようになってしまう(私の実体験)。要は出した意見を否定されることを繰り返すと自分の意見に自信がなくなって、言い出しづらくなってしまうのだ。そしてその認識はなかなか変えることができないものとなってしまう。

意見が切り捨てられる=間違いではない

自分の意見を言える人も言えない人も、一つだけ覚えておいてほしいことがある。

それは、意見を否定されたり切り捨てられるからと言って、その意見は決して間違いではないということである。その意見がaという集団では切り捨てられたとしても、あってもbという集団では受け入れられるということもあるのだ。

現に私は昔から持っていた自分が人間が嫌いで他人との同居生活に向いていないから結婚したくないという意見が学生時代は誰からの理解も示されず、結婚しないとダメだろ見たいなことを大半の人間が返してきたが、成人後に信用できる人にこの意見を言ったところ今は人間のライフスタイルの多様化も進んでいるし、それでもいいのではないかという答えをもらったこともある。

人間という生き物自体が多数派に所属して安心したがる性質にあるので多数派の意見が正しいような見方をされることは確かに多い。だが、意見が少数派になろうとも人間はそれぞれ考えることも違うし、たまたま出した意見が周りの人間たちの方向性と一致しなかっただけでその意見自体が間違いというわけではないのだ。

誰かにおかしいと言われても、却下されたとしても、その意見は自分が持った意見の一つで間違いじゃない。自分の意見に自信が持てなくって、何も言えなくなってしまったとしてもそれだけは覚えておいてほしい。

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コメント

  1. 藤木のび太 より:

    自分の意見の言いづらさ。これがサイレントマジョリティー
    いわゆる物言わぬ多数派、いやむしろ
    (本当は言いたいのに)物言えぬ多数派を作り出すと思います。
    要は空気読めというやつ。無言の圧力。
    この圧力は弱者ほどひどくなる。
    空気とは、精神的ヒエラルキー的なものと思われます。

    弱者が何か強めの発言をすれば叩かれる現象は
    「のび太のくせに生意気な」+「多数派が本当は
    発言したいが空気を読み発言できない葛藤を言い当てられた怒り」
    これらが多数派間で共感共有された結果かもしれません。

    さらに厄介なのは、物言う弱者を叩けば叩くほど
    多数派も自分自身の意見が発言できなくなるということ。
    自分の意見を持つこと自体に罪悪感を持つこと
    他人の振り見て我が振り直せというやつです。
    こうして皆、ますます普通になってゆく。
    弱者ほど大きな罪悪感を持たなければいけなくなる。
    この罪悪感が自己肯定感問題の根源だと思います。

    普通になれない私たちには生きづらい世の中ですが
    歯を食いしばって生きていきましょう。

    • zyoken より:

      藤木のび太様 コメントありがとうございます。
      意見を言っても却下されるのは結局周りの意見も聞いておいて、意見を聞いたら却下で切り捨てることでその後にお前の意見はダメだから自分の意見にしようみたいな感じで圧力をかけ、自分の意見を通したいがためにやっていることではないのかと考えたことがありますね。
      自分の意見を言えなくなって皆が自分の意見を封じ込めた結果、俺も私もそう思う、○○って意見でいいやってなってしまって自己肯定感がなくなり、自分軸もなくなることで自殺へのハードルが下がり、普通になれないがゆえに異常者扱いされて極端な暴言や否定されて辛さが重なって自殺に走る・・・それが今のこの国の現状なのかもしれませんね。ずっと苦悩の中生きてきた私にはもう食いしばる歯も残っていませんが・・・(歯自体は健康です)
      私自身はこのサイトで好き勝手に発言しているので時折ノイジーマイノリティなのかな・・・と感じてしまう時もあります。

  2. 一力 篤史 より:

    こういう事を言われたり、否定されたり切り捨てられると同じく意見とか言えなくなりますよね。
    ただ私の場合は、意見を言ったら「何聞いてた?」「話聞いてた?」「話聞け!」と怒られて、意見が言えなくなる、言いづらくなるタイプでした。
    挙げ句の果てに黙ってたら何か意見言えよて言われる事もよくありました。
    私も赤い文字を読んで同じく受け入れるのもあるよなと感じました。
    特に一番怖かったのは、私ではないですが、互いの意見が合わず仲間内での喧嘩がありました。
    少なくともこういう事を起こしたくはないので気を付けていきたいですね。

    • zyoken より:

      一力篤史様 コメントありがとうございます。
      「話聞いてた?」はよくありますよね。自分たちでさっさと話を進めるから、分からない部分が出てきたりすることもあるのに・・・脳の処理速度が遅い私は常にそう思っていました。意見言えよはあれですね、言ったところで私が言ったように意見を聞いた直後に却下という言葉で切り捨てしてくる人間も多いので言えって言ったのお前だろって感じたこともありました。そんなわけで私はグループディスカッションなどは今でも不得意です。
      グループ内でのいざこざは話し合いで結論を出すという目的がある以上必然的に発生してしまうものなのです。例を挙げれば、修学旅行に京都に行く話し合いをしたときに班員の何人かが俺は金閣寺に行きたい、私は清水寺に行きたいみたいに自分の意見をぶつけ合うみたいにどんな小さな話し合いにも起こってしまう可能性があります。これはもう変えようのない人間の性なのだと私は思っています。