日本の人間は、常識や当たり前という考えをそれが正義だなどと言って過信する傾向がすごく強い民族だと思う。ここでも書いたが、実際、相手に自分と少しでも違う部分があればものすごく排他的な態度をとる人間って多いと思う。
そしてその態度から差別というものが生まれるのではないかと私は思わざるを得ない。今回は常識や当たり前が生み出す差別について書いていこうと思う。
常識や当たり前は昔の人間たちが決めたことである
そもそも常識や当たり前という考えは人間が生まれる以前から存在したものなのだろうか?現在の常識や当たり前は人間が進化していく過程で生まれたことに過ぎないと思っている。
人間は弱い生き物である。だからこそ複数の個体がグループとなって協力して生きていくために決まり事を決め、そこからルールが生まれて常識が生まれたのであろう。悪いことをしないように決まりを作るのはいいが・・・
私が見る限りでは輪を大切にする日本の人間たちはそれらの考えを過信しすぎたとしか思えない。少しでもできない人間、少し普通からずれた人間、理解できない趣向を持った人間はいじめやレッテル貼りで迫害や排除に追い込む。これは差別の一種なのではないだろうか?
正論で攻撃をする、差別し見下すことで生まれる安心感
そしてこれらの事をすることで人間に生まれる感情がある。それが安心感だ。自分は多数派の考えに属している、自分は間違っていない正しいんだと思い込むことで安心感が生まれ、違う考えを持つ人を更に叩いたり非難する。やったもん勝ちの現状を乱用し、自分が優れていると思い込む、こいつなら見下してもいいと決めつける・・・
私はこんな常識や当たり前を武器にして戦う人間を私は情けないとしか思えない。こんなことでストレス解消をしているのは考えることを放棄した馬鹿、つまりは・・・思考停止人間のやることだ。
差別っていうのはね、そういう嫉妬や見下しみたいな感情から生まれるものなんだよ。あいつは○○できないからそして周囲の興味を持った人たちがそれに便乗したり、本当はやりたくなくても自分も差別されたくないから仕方なく従ったりする。自分ができるからってできない奴を責める理由は成立しない。
そもそも人間は一人一人違う生き物なのだから本来は比べるなんてこと自体できないはずなのだが、積極的にやろうとする人間に疑問を感じざるを得ない。こういうのはすべてみんなで仲良くしましょうねという教えが生み出す歪みの部分でそれがあるからいじめや差別が起こる。対策としては逆に嫌いな奴とは付き合わなくていいという考えを小さいころから積極的に教えて行った方がいいと思う。全ての人間と仲良くなんてできないのだから。
当たり前、常識という言葉を使う前に
当たり前、常識という言葉は気軽に使える言葉だと思うが、私は当たり前、常識という言葉を使う前に以下のことを考えてほしいと思う。
・自分ができることは他人も出来て当たり前だと思っていないだろうか?
・できないやつは努力が足りないんだよとか思っていないだろうか?
・あいつはできなくても何も言われないのはずるいとか思っていないだろうか?
相手と会話していてそんなの常識、当たり前だろと言いたくなったらこの言葉を思い出そう。あなたの常識は誰かの異常、あなたの当たり前は誰かのできない。ということでもあるのだから。
常識や当たり前から差別を生み出すのであれば、私はそんな概念いらないし、信じなくていいとすら思う。多くの人間が守ることで恩恵を受けられるものであっても、少数の人がその多くの人間からお前は違うから変な奴だ、ダメな奴だと言われ、死にたくなってしまうような仕組みなのなら毒でしかない。
それに加え、努力や克服によって少数から多数に馴染めるようになった者からも俺は嫌なことでも乗り越えたのにできないお前はダメな奴だと責めてくるのだからたまったものではない。そういう経験をしてもできない人に何も言わないのならいいが、言うのであれば、私はそういう奴ほど自分を捨てて出来ない相手にかつての自分を重ね合わせて攻撃している奴だと思わざるを得ない。
日本は今一度、和の心という考えがどういう物であるのかを思い出す必要があると思う。当たり前を使っていいのは本当に基礎的なこと当たり前としている「当たり前体操」だけだ。