後遺症で苦しむ人間の最大の敵は克服した人間

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いじめに限らず様々な後遺症の苦しみは消える人と消えない人がいる。いじめ後の過程で自己肯定感を築くことに成功して消すことができた人、いじめ後も酷い道を歩き続け年々恨みが増している人など、人によってさまざまだろう。

私は思うのだがいじめ後遺症で苦しむ人間の最大の敵はいじめを克服した人間ではないかと思っている。克服した人間というのは自分が乗り越えられたという自信や経験があるため、どんな人間でも苦しみを簡単に乗り越えられると考えがちだ。

その考えを現在進行形で苦しんでいる人に励ましのように見せかけた説教や非難という形でぶつけるパターンが多いので私は克服したこそ後遺症で苦しむ人間の最大の敵ではないかと思っている。

苦しんでいる人間に説教したところで誰も幸せにならない

克服した人間が苦しんでいる人間に向かってまず対策として行うことは何か。私の経験から言えば大半は説教もしくは元気づける言葉だろう。内容としては

・俺もどん底だったことがある。だが今は幸せだからお前も這い上がれる。

・これはお前のためを思って言ってるんだよ。昔のことは忘れろ。

・お前よりもっと不幸な人もいるのにそれに比べればお前の悩みは軽いだろ!

・死ぬ気になればどんなことだってできる!根性出しやがれ!

・甘えるな。働く気がないのならさっさと死ね。

というような言葉が多いのではないだろうか。説教をされた経験のある皆様であればどんな感じかは脳に一言一言の言葉が記憶されていることだろう。私はこういう言葉を見たり聞いたりするたびに人間なんか滅亡すればいいと思っている。克服した人間の説教は苦しんでいる人間にとっては猛毒以外の何物でもない。

また、こういう言葉を平気で言える奴らは総じて誰かと自分を比べて自分の優秀さを自覚していないと生きていられない過干渉なんだろうなって思う。明らかにいじめ後遺症がしっかり出ている状態だ。本当に優秀な人間は説教という行為で助けようとなんてしない。説教をして「そうか、俺はなんてダメな奴だったんだ。目を覚まさせてれてありがとう。」みたいな答えでも求めているんだろうか?

だが私はこんな説教を苦しんでいる人間に浴びせたところで誰も幸せにならないと思っている。本当に幸せな立ち位置にいる人間なら他人に説教などしている暇はないだろうし、未だに苦しんでいる側にいる私から言わせればこうである。

悩んでいる問題がお前らの提示する根性や訓練、忘れることで解決できるのなら最初から悩んでない。お前らの言われた意見が自分に合わない、もしくは嫌だと思えば否定もするさ。

それにそんな言葉を吐き続ける私のような人間が不快に感じるのならもう関わんな。それができる人間こそ君たちの言う立派な大人なんじゃないの?皆辛いんだよなんて言葉に酔っているのなら少なくとも君は立派な大人じゃない。

苦しんでいる人間は死ぬ気なったら自殺に走る

説教によく使われる言葉に死ぬ気になればなんでもできるとかいうのがあるが、私が思うに

本気で死ぬ気なった人間こそが自殺に走るんじゃないかと思う。

多くの人間は死ぬ気になれば何でもできる、俺にできたんだからお前にもできるはずだという考えを持っているように見える。だが少し待ってほしい。人間は個体ごとに考え方もとらえ方も大きく異なる生物である。

自分ができたからと言って苦しんでいる人にそれを強要するのは絶対に良くない。そんな言葉で苦しんでいる人は救われない。それにその言葉一つで自殺という最悪の選択肢を選んでしまう場合もあるのだから。

現在も苦しんでいる人間に克服した人間のアドバイスなんて役に立たない

私が思うに克服した人間のアドバイスというのは

・見返す、成り上がる、(社会的に)幸せになりたいなどという考えを持っている。

・説教を受け入れることができるほどの余裕と心を持っている。

・何か大切な守らなければならない存在がある。

と言った条件を持っている人にのみ効果があるのではないだろうかと考えている。現在も苦しみが継続している人間には効果がないどころか自殺感情を促進させたり、余計に自責の念を強くしてしまうように思う。

自分は乗り越えられたから、自分は問題なかったからという自分以外の人生経験もないのにただ苦しんでいる人に向かって正論を交えて説教を行ったところで意味はない。人間は説教を真に受けて正しい方向に動いてみようと思える都合のいい人間ばかりじゃない。

そんなことを平気でできる人間は救世主でもヒーローでもない。ただの自分の意見の押し付けや押し売りをしているだけの悪役だ。苦しんでいる人間に必要のは寄り添うこと。克服方法や説教なんていらないのである。

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コメント

  1. 藤木のび太 より:

    私も、昔は○○だったけど頑張って克服した系の話をいろいろ見聞きしましたが、
    ほとんど良いものはありませんでした。

    特にたちが悪いと思われるものが、努力して性格を直した系。
    この手の人たちは過去の自分を恥じ、この恥ずべき存在に対して教育的義務感
    を感じているものと思われます。この教育的義務感、ひしひしと伝わります。
    こうなると私も敵としか思えません。

    最も最悪なのは、重度の障害者が努力して社会適応し
    それが世間に過剰に称賛され「名誉健常者」と化すことでしょう。
    私にとっても、そしておそらくその障害者にとっても良いこととは思えませんね。

    • ジョニー小林 より:

      藤木のび太様 コメントありがとうございます。
      自分が努力して直した、社会に適合したと思っている人間たちはお前にだってできる、だから矯正できるもしくは俺が矯正してやると考えがちですよね。克服した人たちほど同じような欠陥を持っている人間を目にすると「過去の自分を見ているようだ。」と言って説教してくるんですよね。そもそも欠点を全て努力で矯正できる方は他人に説教できるほど元気なのですからそんなに深刻な問題を抱えているわけではないようにも思えてしまいます。自分が上手くいったからと言って他人にも効果があると思い込んでいるのも厄介です。
      私は人間によって考え方は違う物なのだからできないことに目を向けるよりできることを伸ばして言った方が時間を有効に使えると思っています。実際、運動できない私は運動大好きな人間たちにどうして真面目にやらないんだよやる気を出せと言われ続けた結果、今でも運動は嫌いですし、オリンピックなどにもほとんど関心を示さなくなりました。
      重度の障害を克服して社会適応した方は立派だと思いますし、絶賛するのはいいのですが他の障害を持つ方に向かってその人の克服したという極めて稀な例を持ち出し「あの人は克服したんだからお前にだってできる!」などと考えを押し付けている時点で重度の障害は克服できるんだという考えに縛られているためそういう人はものすごく視野が狭い人間なんだな感じますし、努力すれば何でも矯正できるという考えも日本の腐った教育のやり方が生み出した副産物なのだろうかと色々な意味で絶望を感じますね。