擬態して生きることほど辛いものはない

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この世界では悪い意味で目立つ人間は嫌われるようにできていると思う。勉強・運動ができない、行動が遅い、趣味趣向が特殊・・・悪い意味で目立つ要素は数えきれないほどある。

そして嫌われることを辛く感じる面を持つ人間であるがゆえに大半の人間は自らの素を隠して、周りの人間に嫌われないよう普通の基準に合わせ、普通のふりをして擬態して生きざるを得ない状況になる。

私にも言えることなのだが、この擬態して生きるという事は自分はどこに行っても認められないような気持ちを感じてしまいつらいことである。なので今日は擬態の辛さについて書いてみようと思う。

擬態して生きるというのは自分に嘘をつくこと

私は擬態して生きるという事自体を

自分に嘘をついていじめなどの被害に合わず目立たない様生きる方法のうちの一つなのではないかと思っている。

擬態すると言うことは普通のふりをしていきることで周囲から悪意の目線を向けられにくくなる効果があると思っている。人間はいじめなどのターゲットにされたら、逃げるか離れるかの選択を取らない限り苦しみが永続的に続くことが多い。

だからこそ変な目で見られないように人間は擬態して生きる選択を選ぶ場合が多いのかもしれない。カメレオンや虫が体の色を周囲の色に同化させて見つからないよう生きることと同じなのだろう。

だが、その反動で鬱憤が溜まり、ストレス解消を目的にネット掲示板などの世界で特定の人間を見下して悪意を向けたり、ネットでは普段の姿から想像できないほどに攻撃的になる人間も多いような気がする。

私はできればネット掲示板などで特定の人間を馬鹿にしたり、悪意を向けたりするような人間にはなりたくはないと思っている。いじめにあった経験から人間に暴言を吐くことの醜さと言われた相手がどれだけ傷を負うかを知っているからだ。

だからこそ擬態して生きるという事は辛いのである。自分の本心をさらけ出せる相手もおらず、自分に嘘をついて姿を使い分けて生きていく。私だったら心が消耗しすぎて早死にしてしまいそうだ・・・

切り替えのできない人間はいる

私は人間は様々な姿を切り替えの能力によって使い分けられる生き物だと聞かされた。仕事している姿、プライベートの姿、友人と過ごしている姿など様々だ。中には他人に見せたくない姿だってあるだろう。

だが、私はその切り替えができたことなかった。学校にいようと仕事場にいようと私は私のままであるとずっと思ってるし、切り替えることができないからこそいじめにあったことなどを忘れることができず今でも苦しんでいるのだろう。

習得しろもしくは習得できている(できる)と言われたこともあったが、自分の気持ちを分かるのは自分だけ。自分ができていないと感じているから私はできていないと思っている。思い込みだと言われることもあるが・・・それでも私は切り替えができない人間は一定数いるのだと言い続ける。他でもない私自身がそうなのだから。

姿の切り替えの能力は見えない闇を抱えている現代社会で生きていく上には必須でなおかつ大切なことなのかもしれない。だからそれができないと周りに合わせ、擬態して生きるしか方法がないのである。

切り替え機能が付いていない私の生き方

気持ちの切り替え機能がついていなければ人間社会では不利なのは当然である。なので、その機能が付いていない私なりの生き方を考えて以下のような事をすることで多少であれば軽減される効果があると思っている。

・ネット、現実共に人間との関わりを減らし身内、友人、施設の方など信頼できる人との関わりに重点を置く。

・周りに迷惑を書けない程度に自分を全開で行動する。

・自分の考えを誰にも理解されないことを覚悟してこのサイトに書く。

・女子キャラクターを人間と彼女たちの気持ちや考えをできる限り理解する。

1・3番目はこのサイトでもよく言っているので2・4番目のみについて解説する。

2番目の自分を全開にするというのは嫌悪感をばらまかない程度に自分をさらけ出すという事である。私は正直1日24時間のうち8時間は視聴した女子キャラのアニメで推しがなぜその行動をしたのかという理由を考えたり、不遇な子はどうやったら救われるのかを考えたりしている。全開にするとはいえ、女子キャラの印刷された服を着たりしてすることはない(汗かきやすい体質なので女子キャラに失礼だと思ってしまうため)。

4番目の理解し寄り添うは個性的な女子キャラたちがなぜそのようなことを考えるのか、もしくはなぜその行動を起こすのかを理解し、分析して研究する。私は自分自身の思考が人間よりも女子キャラクターに近いと思っているため、それらの行動でも救いになることがあるのだ。

気持ちの切り替えができないがゆえに擬態しないと生きていけないのは辛いことだ。だが、私は自分の気持ちに嘘をついてまで、擬態して生きなくてもいいのではないかと思っている。

結局何をしていても悪く言ってくる人間の数は0になることはない。たとえ嫌われようと擬態の手段を取らずに自分をさらけ出して生きている人を私は素敵だと思う。気持ちの切り替えができないのであれば、そう言った特性でも安心して生きられるような道を探すのも有りなのではないだろうか?

好きな事を共有出来る人間や理解してくれる人間を大切にして生きる。それが闇の多い現代社会を生きる一つの手段なのではないだろうかと私は考えている。

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