今日から私の半生で発達障害のようだったと思い当たる部分について振り返っていこうかと思う。私の詳しい半生についてはこのサイトで紹介している電子書籍に書いてあるのでそっちを読んでほしい。
幼少期の話を聞いて気になったところ
私の幼少期だが、この頃は普通に近い特性だったこともあって特に問題になった記憶はない。むしろ幼少期の記憶が残っている人間は少ないだろう。私の幼少期に残っている記憶の中で発達障害がある可能性を疑っている出来事は
かなり重症の偏食であった
ということだった。
偏食(重症)について
偏食と言ったが、一定の物しか食べられないというほどでもなかった。しかし、嫌いな物でも食いやがれと周辺の連中に説教されるレベルではあった。私は教員どもに反抗して常に拒んでいたが・・・というのも私は鼻がよいという何の役にも立たない能力が幼少期から非常に高かったので、臭い香りのする食物を食べると鼻に香りが入ってしまい吐き気がするのである。
今ではほとんど食べられるが、当時は香りのきつい野菜や肉が特に駄目であった。給食で出されるのは栄養のバランスを考えたものなので私の嫌いな香りの強い野菜や肉が多く使われていたのだ。え、当時の私の主食?今でもそうだが麺である。
結局年を取るにつれて野菜は一部の香りのきついものを除いて食えるようにはなったのだが、この頃から教員と私は相性が悪かったのかもしれない。だからこそいい人間を演じて結局苦しくなったのだが。偏食と発達障害にどんな関係があるかは私は知らない。だが、鼻がいいというのは普通の人間に備わっていても悪臭や嫌な香りを強く感じるだけで、何の役にも立たないということだけはよくわかった。
これらの話から私が感じたこと
この様な状況であったにもかかわらず、親は私を普通の子だと思って育てていたという。偏食という物は子供だけでなく大人にもあることなので(とは言っても子供に比べるとはるかに少ないが)、何とも言えない。しかし、食べられないものがあるだけでお前は悪い人間だと執拗に責めるのはなんなんだろうか。
確かに食べられない食べ物があるということは命を差し出してくれている野菜や牛や鶏、魚に対して失礼だというのはわかる。食べないということは彼らの死体をそのまま破棄しているようなものなのだから。しかし、障害持ちの人間は食べることを強要された結果、食事が嫌いになったり、食べるとこを強要された食べ物を二度と食べなくなってしまうことだってあるのだ。実際、私も無理やり食わされたもの(キャベツの芯、ブロッコリー、アルミの容器に分厚いハムが入った目玉焼き)は今でもあまり好きでなく、目玉焼きに至っては最近ようやく食べられるようになったぐらいだ。
偏食は悪いことなのかもしれない。だからと言って食うまで自由にさせないというような縛りを強要する学校には非常に嫌悪感を覚える。食えと脅した所で食べるようになるのか?自分の経験上、食べられて褒められたって私は全く嬉しくなかった。むしろ上記で上げた3つについては今でも食えない状態になっている。当時は鼻が良いことだって気づいていなかった。
私は嫌なものでも食べることを強要する連中は食べ物を無駄にせず食べているのかが疑問だ。食べきれなくて廃棄するなんてことはしていないだろうな?自分は好き嫌いせずなんでも食えるよと言えるんだろうな?そうでなければ食べることを強要する資格はない!とすら思う。
もしこれで、指導者も大変なんだという意見がまかり通るのなら・・・私は教師という人間との相性が非常に悪い。ただそれだけの事なんだろう。