いじめ加害者を擁護する人間が使う淘汰という言葉について思うこと

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いじめを正当化する人間はその際よくこんな言葉を言っている。

「この世はしょせん弱肉強食。いじめられる弱い奴は殺されて当然の欠陥品なんだから俺のやっていることは自然淘汰だ!」

こういう言葉を見かけるたび私は馬鹿なんじゃないのかと思う。人間の世界に弱肉強食の生き方などあてはめられるはずがない。そもそも弱肉強食を自然淘汰の意味で使う人間に一般的に強いイメージがある肉食動物ばかりが生き残っていないのはなぜなのかと聞いてみたい。むしろ私は群れを作れるほどの生き残れる個体の多い草食動物の方が強いのではないかと思うことすらある。

そもそも淘汰ってどんな意味なのか

自然に使われている言葉ではあるが淘汰ということばの意味を知らない人や知らずに使ってしまっているも多いと思う。なのでここで淘汰とはどんな意味があるのかを挙げてみる。

淘汰(とうた)
不用・不適のものを排除すること。「―法」「人為―」。生存競争によって環境に適応しない個体が死滅し適応するものだけが残るということ。

出典:google翻訳

つまりは今の環境に適応できない者・不要な者を人間の場合社会や世間から排除するという意味である。人間の場合排除される対象になるのは全く仕事をしていないニートのような人間や私のような発達障害を持つオタクのような人間なのだろう。やるべきことをやっていないという勝手な決めつけや不快感があるという理由からで。

いじめによる自殺は自然淘汰じゃない

だが、いじめを受けた私から言わせてもらえばいじめによる自殺は自然淘汰などではないと思う。なぜならいじめというのは人の手によって行われるものだからだ。自然淘汰は自然と環境に適応できない生物が消えていくということなので人の手が加わって行われるいじめによる自殺と自然淘汰は全く違うことだと思う。

それにいじめられて自殺するやつはしょせん社会に適応できない欠陥品という表現。

はっきり言ってこの表現がおかしいんじゃねえの!?

私は何度も言っているが人間はできることが一人一人違っている。そのできる部分が社会で役に立たない物や気持ち悪い物で社会に必要である部分に不得意なことが少しでもあると使えない奴と言われ欠陥品扱いをされいじめてもいいという考えが生まれる。そういう考えを先に廃止しないから学校職場コミュニティ問わずいじめが未だにあるのではないだろうか?

人と違うこと認められず、俺は正常だ問題ない正しいできないあいつが間違っている。私が出会ってきた人間のほとんどはそんなことを考えている奴ばかりだった。

自然淘汰を弱者の排除みたいな表現で使う奴らは人の気持ちが分かっていることを自称しながらも他人の気持ちが全く分からないというような奴ばかりなのだろう。だから人が傷つくことを平気で言えるし、憎まれっ子世にはばかるの言葉通りこの国で社会人として出世できる奴は大半がそういうのばかりなのだろう。全く、どっちが欠陥品なんだか。

こういう事を言うとそれは努力していないお前が悪いと返されるが、いじめを弱者排除の正義の行為だと思い込んでいる奴の方こそ傷ついた相手の気持ちを考える努力を放棄しているのではないだろうか。そんなことをしている限り、気持ち悪い人間は生まれ続けるだろうし日本はいつまでも進化どころか退化するだけの衰退国のままだ!!!

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