信者。それは概念(一般的には宗教など)を盲目的にすべてを肯定する真剣ではあるがある意味危ない側面も持つ存在だと思っている。そんな私は最近様々なことを通じて何かの信者になるということ自体に意味を感じなくなってしまった。というか信者でいても何も得られず、金をむしられるだけなのではないかなとソーシャルゲームに大量の課金している知人を見て思うようになった。
今回の内容で取り扱う信者は宗教の信者ではなく、作品を盲目的に信じ製作者を擁護する存在のことを指す言葉として使う。
私もかつては信者だった
今でこそ信者であることに意味を見出せなくなった私ではあるが、信者に近い状態であった作品がいくつかある。
それはポケモン、イナズマイレブン 、大半の女子キャラクターアニメの3つだ。
まずポケモンに関してだが、私はポケモンを身近に感じて育った世代であり育成ゲームそのものが大好きであった事から見事に夢中になった。今でもゲームは続けているし、ポケモンGOもプレイ3年目を迎えている。
信者でなくなったきっかけはいつまでも主人公を引退せず、旅を続けるサトシの愚行に腹立たしくなったのとロケット団などサトシの敵側の手持ちに私の好きなポケモンが多くなり楽しめなくなったこと、ポケモンによる格差と素早さ主義で鈍足ポケモン使えないという風潮が広まり、ドダイトスを中心とした私の好きなポケモンが評価されなくなったからである。
どちらかというとサトシの愚行の方が大きいが、好きなポケモンを使いづらくなったのも私の心にダメージを与えたのは事実である。
イナズマイレブンは信者ではなくなったが今でも大好きな作品である。正直少し前まではイナズマイレブンのような素晴らしい作品なら信者になっても悪くないと思ったことすらあった。
しかし、近年のアレスの天秤では社長が総監督になって好き勝手やらかし、見事に熱くもなれないノーマルシュートでのバカスカ得点する面白みもない試合展開、DFの置物化、昔から馴染みのあったライバルチームのほとんど(FW除く)をモブ同然の扱いにする、アレスの天秤は序章にすぎないという発言ですっかり冷めてしまった。それでもイナズマイレブンは私の命を救ってくれた作品でもあるので終わるまで付き合うつもりではあるが。
女子キャラクターアニメに関してはここやここでも書いたことがあるが、私は作品を見る時に推しを選びその子を中心にして視聴し分析をやるので、推しに大した出番がなければその分評価が下がってしまう。どれだけ世間に評価された作品であっても、推しが幸せになっていなければ私にとっては微妙。というのを繰り返した結果、あまり作品自体を敬う気持ちを失くしてしまった。
私がどれだけ愛を注いでも、結局監督や作者の作り出す展開には逆らえない。作品がどれだけ面白くて話の構成がしっかりしていても、推しが幸せになれなければ私にとっては苦しみへと変化するし、おまけに視聴者やオタ自体を嫌う一部の過激なアニメ監督の暴言を見てしまったことで擁護や都合のいいように変換することにも疲れてしまった。別に人間好き嫌いがあるのは当然だと思っているが、面白い作品や評価される作品を生み出す力や権力があれば特定の対象に対して暴言吐くのが許されるのだろうか?
そんな状況に失望したこともあり、それなら今後はどんなに素晴らしい作品であっても監督や創作者の思いのままにしかならないのならもう信者なんか絶対にならないという結論に至ったのである。金も自分が必要だと思ったこと(推しのキャラ限定のみのグッズ購入など)以外には使わないというスタンスの元活動している。
信者になるより好きでいることの方が大事
私はこれらのことから信者でになることをやめて推し専門のモンペになり、自分で作品を作る道を選んだ。私自身はモンペになったことに一切後悔はしていない。全力で推しの味方でいられる分信者でいた頃よりは心地がいいし、推しの出ないシーンは躊躇なく飛ばせる。
お前たかが小さいことにダメージ受けすぎだろと思う人間もいるかもしれない。だが、私は何人もいる女子キャラから選んだ推しの幸せを見るのが何よりも好きなのだからどうしようもない。そんなことをたかがなどという言葉で返してくる奴にはこんな言葉を送りたい。
好きで真剣に取り組んでいることに小さいも大きいもあるか。私は押しを中心として女子キャラを研究することやイナズマイレブンを見るのを辞めてしまったらもう死んだも同然なんだよ。私が女子キャラクターの研究を辞める時はこの命が尽きる時だ!
こんなことを言っているが、私自身女子キャラクターという存在だけに限定して言えば今でも信者みたいなものではあるのかもしれない。