この国の人間は弱者に対してすごく高圧的で攻撃的である。それはこの国の人間のほとんどが自分ができることは他人にもできる!できないやつは甘えているだけだ!という考えが充満しているからだと私は思う。こういう人間はすぐに甘えという言葉を多用し、台風がきて出勤できないのは甘えなどの主張もするような人間だと思う。
私は正直言ってそういった人間は何よりも仕事が大事とされている現代社会に適合しており、そこにうまく依存できただけの存在だと思っている。そんな人間も会社に見放されれば終わりであることにも気づかず弱者を傷つける。いじめ人間と同じぐらい最低の人間だ。
努力しても何も得られなかった私の場合
ここからは私が実際に普通に少しでも近づこうと実践した内容を書きだした。
先述したようなこんなの努力のうちに入らないし、甘えは許さんと思う人間は、どうかこの時点でお引き取りください。貴方が私を理解できないのと同じで私もそんな人間とは理解しあうことはできない。
かつては(今でもやっていることはあるが)私もこの平均的で醜い社会に合わせようとたくさんの努力を重ねた。その一部が以下の内容である。
いじめを受け、運動面で攻められても学校は休まず登校、修学旅行にも参加し、高校では成績を上位に保つ。
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いじめ連中から暴言を吐かれて目の敵にされ、物を盗まれたり、修学旅行ではいじめを集中的に受ける。高校は体育会系なので成績をを目の敵にされる。
良い人間を演じ、いじめを受けても耐える。できる限り成績は高く保ち、教員を味方につけようと真面目な人間を演じる。
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いじめを耐え続けた結果、10年近くいじめ後遺症に悩まされる。苦痛の気持ちが晴れたことはない。教員は一部を除き私の味方ではないことに気づく。
発達障害判明後も派遣や就労施設などに通い、仕事探しを現役時代から数えても3年近く休まずに継続している。
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障害枠の求人の少なさ、派遣先などでの理解のない人間たちの上記のような暴言、支援施設に通っていたころに決まっていた会社も入ってみると最初に提示されていた条件との相違点の業務が私には無理があり、退職。
私が社会に適合するためにしてきた努力は以上の通りである。しかしどれもよい方向には開かず、いじめられ馬鹿にされ続けたことによって私は心でいつも泣いている卑屈なポジティブアンチと化した。私には好きな女子キャラクターに愛と探究心を注ぐしか道がないんだという考えも持つようになり、これは一生変わらない私の価値観となった。
私は元から相手の発言をすべて受け止める人間であり、スルーや無視などの技能は訓練しても一切身につかなかったので暴言を多用する人間からの心無い言葉で精神を壊してしまうようになった。
なんでも甘えと決めつける人間のまとめ
私は発達障害が判明してから様々な支援機関で話を聞くうちに毎日出勤できるだけでもすごいこと、仕事がないときに家事を積極的に手伝うことも偉いこと、仕事をしていて自立している人間が偉いなんてことはないなどという言葉を聞き、目から鱗が落ちた。それは、世界で一般的に正しいと言われていることなど多数派が決めた意見でしかなくそれに縛られて苦しむ必要はないということであることに。普通の道から外れて生きている人だってたくさんいるではないか。
甘えるなと簡単に言う人間は上記のことなど努力のうちに入らないし、当たり前のことで言い訳でしかないと思うのだろう。自立できないのは甘え、発達障害は甘え、いじめられるのは甘え、結婚できないのは甘え・・・そこまで甘えを使うのならもう私は一般的に言われるまともになんかなりたくないし普通という概念に嫌悪感しか生まれない。仕事が見つからず生きていけなくなったら私が死ねばいいと思っているし、私が死んでも甘え人間たちは喜ぶだろう。
私が行きついた結論としては自立や甘えを多用して暴言を吐く人間は甘えという概念に甘えている甘え依存の最低人間なんだろうと思う。多数派に落ち着いて安心し、普通になれない私のような人間に対していらだちを感じ、できないことがあるのは甘えと言っているのだろう。だが所詮そういう言葉は社会に適合できた人間の戯言でしかないと私は思う。
人間は完璧な奴などいない。そんなわけで本人が気づいておらず完璧超人だと思っている甘え人間の大きな欠点を最後に書いて終わることにする。
甘え人間の欠点は周りも自分と同じようにできる存在だと思い込み、できなければ暴言を吐いて見下し人の心を簡単に傷つけるが、それがとがめられない多数派社会に依存しているだけの最低人間だということだ!
コメント
私もその様に思っておりました。この社会の仕組みに適応できない事、が甘えだ。と言い 見下し馬鹿にして、人を容赦なく傷つける、一般的に? 社会に適応できてる人達。そういう人達は、この社会に依存して見えます。この社会の何か、にも依存していると感じました。
四葉様 コメントありがとうございます。
この国で大切なのは他の人と同じような動きをすることであり、はみ出し者になってはいけないということだと思うのです。私のように動きの遅い人間や動きが合わせられない人間は周りと違うから始まり、劣っている奴だと最終的に迫害されます。人間には一定数俺は普通だから問題ない、問題があるのは普通じゃない奴らだ俺が矯正してやるなどと言う考えを持つ人間がおり、甘えるな努力が足りないお前にもできるなどの言葉で的外れな説教をするのだと思います。今後、そのような考えをする人間が減れば改善されるかもしれませんが・・・古き文化がいまだに残っている状態なのであと100年経たないと厳しいかもしれません。自分もいつ普通から外れるかも分からないのに普通じゃないという理由で見下して馬鹿にしている連中は私から見れば社会という大多数のコミュニティに依存して威張り散らしているどうしようもない奴にしか見えないのです。
考え方は理解できますし、共感できる箇所も多いのですが、ごめんなさい。甘えてると考えてしまいます。弱い生物が淘汰されるのは、自然の摂理であって、生きる理由なんてものは人間が勝手に捏造した概念でしかありません。人間らしく生きることなんか勝手に作った幻想でしかないのではないでしょうか。本来動物なのですから、魚でも草でも喰って生きれば良いのです。自分で食料調達出来ないなら、本来死ぬだけです。誰かに食べさせてもらうのであれば、代償=役に立つ価値を支払わなけれなりません。誰かの役に立つ代償を払えない。或いは自分一人で食料を獲得できない弱者は死ぬのです。その間で不満を口にすることはやはり甘えでしかないと思います…
コメントありがとうございます。
そうですか。ならば障害を持ち、人間を嫌い子孫を残さないと決めている私は自然の摂理で言うと死んでいてもおかしくない存在なわけです。それに私のような人間はたくさんいます。自然の摂理が正しいのであれば私のような生きる気力を失くしている人間が一人残らず居なくなっているはずなのでは?自然の摂理があれば適応できない人間を傷つけて死に追いやることが許されるとはどうしても私は思えませんね。何を甘えかと思うかは人それぞれの自由ですのでその部分には特に言及しません。
毎度過去の記事にコメントしてすみません
ジョニーさんも周りからひどい事をされている状況でも学校休まず、期末テスト(と言っていいのかわかりませんが)も良い成績残し、一般の人たちに馴染むよう努力されてたのですね、
私は学生当時、運動も勉強も悪く成績も赤点クラス、クラスメイトや教員から変わり者などと見られてたのでその点羨ましく、努力されてるんだな(私もそれなりの努力はしたのですが、人からも認められず)と思いますが、
それでも周りからは「そんなんでいい気になるな」ていう人たちもいるんだなていうことに正直驚きです
やはり普通または一般になるのは苦しかないて思えますね
私は前の職場でも学校でも普通の人にはできて、出来ないことはあり、かつて言われたことなんですが、「出来ないことを出来ないていってるとかそれから逃げていると、いつかツケが返ってくる」そういうの言葉を聞くと怖くなりますね、出来るようにしないと怒られる、責められるでも周りから見てお前(私)は出来ていない、周りから逃げるしかない
やはり一般の人たちはどんな困難も乗り越えたのか、これも出来たんだから出来ないわけない、障害があるからて甘えるなて言って、障害とか理解がない人たちが多いんですよ
なんでも甘えという言葉は嫌気さします
ジョニーさんのいう通り完璧な人間て本当にいるのかなて思いますね
一力 篤史様 コメントありがとうございます。
人間というのは自分のできる物差しで人を判断することが多いので、できない人間の気持ちが理解できないことが多いのです。私は特に何もやってないですよ。この記事を書いた当時は努力であるとか言ってしまってますが、今思えば言い過ぎてしまったようにも思います。実際この記事では否定を貰ったこともありますので。
それと、学校に適応できる人たちや仕事ができる人たちが完璧な人間であるのならば私が思う完璧な人間に必須な要素である”思いやり”を持っているはずであり相手のことを考えて言葉を選ぶので、甘えを連呼したり脅しのような言葉をかけている時点で完璧の枠からは外れていると思います。思いやりを持たない人間たちに攻撃された私から言わせてもらえばそういう奴らとは関わりたくもないですね。
逃げは出来ないことを放置したツケですか・・・私は早く行動したりすることや運動が全くできなかったですけど、今現在は全く困ってません。むしろ元々のんびりした気質なので、目まぐるしく動く今の世界に適合している人間たちに嫌気を感じているぐらいです。最早普通に生きるということは放棄して、自分の好きなことを極めるのが一番いいと思います。それを続けていればそれが金を稼ぐ手段になる場合もあるのですから。
記事を読みました。とても同感です。私もいろんな分野で努力しろと言ってくる人達に苦しめられました。努力は悪いことではないとは思いますが、人の事情も知らないのに押し付けてくる人はひどすぎます。私は個性的なファッションが好きでファッション関係の仕事をしたいと考えていたのですが、ファッションジャンルの全然違う人に「そんな着こなし普通しない。頑張りが見えない。みんなファッションセンスを磨く努力してるんだよ!」ときつく言われたり(他の人達は、あなたのファッションはあなたの個性だよ!と言ってくれました。その人は私をファッションの勉強をしてない、そんな着こなし普通はしないからファッションの努力不足の人と決めつけていたようです。私だってファッションの勉強はしてきたし、ファッションは好きです。仕事にしようとするくらいですから勉強くらいします。変わった服に見えるかもしれないけどこだわりだってあるし、決して適当に服を着ているわけではありません。ですが、まあ仕事にしようとしていたわけですから、あれこれ言われても仕方なかったのかもしれないとも思います…その人はファッションのことをなんでも知ってるつもりなんでしょうけど、こういうジャンルの服があることを多分知らないのだなとそれだけは思いました。(それか私のファッションが嫌いなのでしょう。)まあ人それぞれ価値観があるので、そんな服着ない、嫌いと言われるだけならそれはそれでありですがただでさえファッションの勉強を頑張っていたのに、何も知らずにきつい口調で「頑張りが見えない。みんな努力してるんだよ?!」などと、なぜか説教モードで私を努力不足と決めつけ、こだわりを否定され完全に傷つきました。私は私なりに頑張っていたのに。しかも私の為と本気で思っていたのでありがた迷惑の分からない人だと思いました。とにかくファッション以外のこともあれこれ批判され、常に私の全てを粗探しされているみたいな気持ちになりました(ファッションの指摘のみならまだ分かりますが)ファッションのことでいちいち傷ついていてはこの仕事は向いていないと思ったのでファッションは仕事ではなく完全に趣味にすることにしました。今思えばそれでも認められようと頑張って、うつのような感じになっておりました。ファッションは難しいですね。変な服に見えても別の人から見たらおしゃれに見えたり。他にも体の具合も悪く、なりたくてなってないのに「そんなことでどうする!」などと言われました。体調が悪いのに根性論でしょうかね。自分の努力で体調や病気が治るなら医者はいりませんよね笑それで泣かされたこともありました。まあそうやって言ってくる人達もみな問題のある人達だったので、あんまり幸せじゃないんだろうな、人を見下してるんだろうなと思いました。(言うことがころころ変わったり、頑張りすぎて救急車に運ばれたりしてましたね。私はそのような頑張りすぎるような人にはなりたくないなと思いました。誰もほめてくれる人がいないのかもしれません。)その一方で優しい人にはとても感謝しております。昔の人はとにかく甘えるなと言われて育ったのでしょうか?かわいそうですね…日本にもいいところあるからなんやかんや好きなんですけど、私は優しい人になりたいです。長文失礼しました。
やゆ様 コメントありがとうございます。
私はファッションのことはよく分からないのですが、努力を重ねても否定されるお辛い経験をされたのですね。人間という生き物はできるできないを自分基準で考える人が非常に多いのだと思います。なので自分ができているのにこの人はなぜできないんだ→努力が足りないんじゃないかというように思考を動かすのでしょう。そういう人間は自分がすべて正しいと思っていることも多いので無理に相手にしようとせず避けて生きるのが一番ですね。
これだけの説教や否定をされながらもファッションが好き、趣味としてやっていこうと言えるのであればそれだけでも素敵だと思います。好きなことでも何かしら酷い目に合うとトラウマとなって二度と関わりたくないしやりたくないと思うようになってしまう人もいますから。
返信ありがとうございました!
とても嬉しいです。