社会不適合者と適合者について思いの丈をぶちまけてみる

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人間は基本的に社会に適応できない個体を悪者・・・すなわち社会不適合者とみなす傾向にある。だが私は、社会というのは人間たちが勝手に作り上げた多数派の思想や考えの集まりであり絶対的に正しいなんてことはないと思っている。

そして皆もれなく思考停止状態なので私のような人間がいくら反論しようともこのような形で何言ってるんだこいつはと言われて終了。そしてそういう奴らって総じて想像力や思いやりが足りてないんだろうなと思っている。私が思っているのは以下のようなことである。

・いじめをする奴は受けた側の気持ちを想像すらしようとしない。

・自分の価値観を押し付ける奴は押し付けられた相手の負担が分からない。

・多数派に安心している奴は少数派のことなど無視してお前は気持ち悪いなどの暴言吐き。

こんなのが社会不適合者認定ばかりしてくるため正直私はもう人間として生きているのが嫌になってくる。今回は踏まえて社会不適合者とについて思うことを書いてみようと思う。

普通の人間は不適合者にとっての欠点を補正することが相当の苦痛を伴うことを知らない

社会に適合できる人間というのは社会にあらかじめ自分の能力が問題ないためほとんど補正するところがなくても生きていけるんだと思う。無理なく社会に自分をあわせることができるから、自分を磨く余裕も生まれるし、死にたいとか障害を持つ可能性があることについてなど余計なことを考えることも少ないから社会を信じて進んでいけるのだろう。

そういう奴に限って社会に適応しなければ生きていけませんみたいなことを質問サイトや掲示板で偉そうに言う。私には全然響かないよ。こっちの気も知らないで平気で言うそんな建前は。それに私は矯正をしてまで生きようと思えるほど気力ないから。

一方社会不適合になるとまずはその劣った部分(普通の基準から外れた考え、コミュニケーション能力など)を補正矯正することから始めなければならないので、それを補正するだけでも恐ろしいレベルの苦痛が伴うのである。この矯正や補正を例えるのであれば

普通の人がちょい辛のスープを飲んでいる場合に対して社会不適合者の場合は口に痛みを感じるレベルの辛さを持つスープを飲まなければならないということなのである。そしてそれは時に死を考えるレベルで辛いことだってあるのだ。

いまある社会や支援は不適合者を無理やり適応させるもの

大学を内定なしで卒業した私は、発達障害の認定を受けたのちに就労支援などに通っていた時期がある。だが、そこで行われている支援はほとんど一般的に社会で行っていることを通じて社会に適応させるというものであった。

確かにそのようなプログラムを受けることで実際に改善する人間も見てきたのでそういうタイプもいるのはわかる。だが、私には効いているようで効いていなかった。

私は見かけだけはそれなりにできるような人間に見えるらしく、リーダーだの指示係だの多くの上の立場を強いられた。上の立場に立つというのは指示を出すのが不得意な私にとって苦痛以外の何物でもなかった。

私は理不尽に叱責されると怒り狂って反論する社会不適合者の見本みたいな人間なので、嫌々リーダーをやっていた。正直オフィス工場関わらず、誰かに指示を出したり、誰かと連携してやる作業は今も嫌いである。

そもそも、社会に適合できた時点で不適合者じゃなくなるのではないだろうか。私自身も今の仕事は無理なく続けているが、期限付きなので結局は未だに不適合者だとしか思えない。

 社会不適合者は「おかしい」ことがわかる人間

色々と書いてきたが私は社会不適合者は

普通は当たり前だ思っていることのおかしい部分がわかる人間なのではないかと思っている。

普通の範囲から弾かれることで普通に適合できる人間たちが信じている物や事柄について疑いを持って考えることができる。

・多数派から迫害されることで、普通の人たちが一生かかっても見つけられない上に理解すらできない面白い事を見つけて楽しむことができる。

・普通という概念に縛られる必要がないので普通は後ろめたく感じてしまうこと(転職・など)に後ろめたさを感じずに行うことができる。

これ以外にもいろいろあるが、これだけすごい特技が自然と身についてしまうのである。世間にはそんなのばかばかしいと言ってくる奴もいるだろう。

だが私は認められなくとも当たり前な事柄に異論をぶつけられることも才能の一つなのではないかと考えている。

引かれたり迫害されたりという嫌な部分もあるが、自分は孤独でも生きられると考えればいいのではないだろうかと思う。普通の人間は群れることで安心感を得るため、孤独を人一倍恐れる傾向にある。

逆に最初から迫害されたり友人が少ないもしくはいない状態が続いていれば、自然と孤独に対する耐性がつくので、人間は孤独であるという最終的には受け入れなければならない考えを受け入れやすくなるというメリットもあると考えることもできる。

私が今現在の世間を見て思う社会適合者というのはいい人も稀にはいるが大半はいじめ加害者のような人と違うタイプを見つけると執拗に攻撃して欠点を馬鹿にするような人間だと思っている。こういうのは人に合わせたりこびへつらうのが得意で自分を捨てられる奴が多いので、社会不適合者に該当する人には毒でしかない。

だったら、社会不適合者であることって魅力的な部分もあるんじゃないかって思う。言いたい奴には言わせておけばいい。いずれ社会不適合者になるのはそういう奴らだ。
社会不適合者しか歩けない道を探して苦しみを抱えていてもその道を歩いていく。そんな人生も悪くない。最近はそんな気がする。

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