人間を嫌いだなどと宣言するとよくこのような反論を受ける場合が多い。
「人間にだっていい奴はいるんだから人間を安易に嫌いっていうんじゃない!」
ここを見ている人なら1回ぐらい言われた経験があるのではないだろうか?しかし私はこの言葉を使っていいのは人を無暗に傷つけたりしない本当にいい人だけなんじゃないかと思う。この言葉を使う大半の人間は自分の思っていることがすべて正しいと思っている偽善な奴らではないだろうか。
なぜ世の中にはいい人がいるという言葉はいい人しか使ってはいけないのか
まず私が思ういい人について定義しておく。私が思ういい人は
・人間ごとの価値観の違いを理解でき、異端な人をダメと言わない。
・いじめや差別をせず、言葉で相手を傷つけない。
・相手を思いやれる気持ちがありやってはいけないことをしっかり理解している。
辺りだと思う。もちろんこれは私の定義であり、いい人の定義など人によっては違うだろう。それにここまでの条件を満たす人間などほぼいないだろう。
話を戻そう。私からすれば世の中にはいい人もいるという言葉を使う人間は身内やカウンセラーさんを除けば、以前に書いたお前も人間だろを正論で丸め込もうとしてくる人間や人のせいにするなを始めとした自己責任論を振りかざしてくるような自分のスペックと周りの人間のスペックが同じであることを前提にしている奴が多いように感じた。
私はこう思ってしまった。そういうお前らはいい人なのかよ!と。確かに上記のような正論や自己責任論を振りかざす人間は社会に好まれる傾向がある。だが、そういう人間ほど異常な者や異端な者を理解しようとしない場合が多い。つまり○○はこうであるのようにきめつけの強い人間なのではないかと思ってしまう。
少なくとも私は相手の気持ちを無視して正論や自己責任論を振りかざす人間がいい人だとは全然思えないので、お前が言うんじゃないよ、言いたければ完全ないい人になってからにしろよ!といつも思ってしまうのだ。
いい人という表現を使いたいなら自分がいい人になれ
私が言いたいのは、自己責任論や正論を振りかざすような人が世の中にはいい人もいると言っても不快な気持ちになるだけで何も響かないということだ。なぜなら上記のようなことを言う連中は私から見れば人との考え方違いも理解できない悪い奴なのだから。
世の中にはいい人もいると言いたいのならまず自分がいい人になればいいんじゃないのか。相手の気持ちも理解しないで自分の考えを押し付けるようなだけの奴にはもう放っておけよとだけ言いたい。正直言って押し付けがましいし、自己責任論や正論を押し付けたところで何も解決なんかしないんだよ。