強いことが正しくて弱いことは間違っているのか?

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強さと弱さ。その考えは人間が誕生したころからある考えであり、相手との勝負に勝てば勝利と名誉が得られ、負けた場合はすべてを奪われ何も残らない・・・人間という生き物は今日までずっと数多くの戦争や争いをしており、敵対する者同士の考えがぶつかった場合はそういったことで争いをしてきた歴史がある。

その考えは命を奪い合うことはしなくとも現代でも残っており、力のある者、世間にそった行動ができる者、場に応じた的確な判断ができる者、精神論や根性論に耐えることができるものが強い者とされているように私は思う。

私は以前にこの世に本当に正しいことなんてないと思っていると書いたが、こういった強者による考えや理論の押し付けやいじめ加害者の個人情報を晒そうとしているネット掲示板の人間を見ていると心からそう思う。ある人にとっては正しいことであっても別の人にとっては間違いだと感じていることなんてこの世界には多すぎるぐらいある。

今回は私が強さと弱さについて思うことを書いていく。

強い者が正しい、弱いものが間違いというのは強い立場にいるものが勝手に決めたこと

そもそも人間が生まれた頃は何が正しくて何が間違っているかなんてまったくもって決まっていなかったはずだ。人間が進化していく過程でそのような概念が生まれていった。最初は獲物をたくさん捕まえられることから始まって時代と共に変化していき、時代ごとに必要とされている力を持った人間が高い立場につき決めていったのだろう。

私が思うに弱者へ暴言を平気で吐ける人間は強い者には媚びるような奴や罪悪感の概念がない鈍感野郎がほとんどだ。実際、いじめ被害者には我慢しろだの過去に縛られていないで立ち直れだのそれができない奴は弱いダメ人間だの好き放題言うくせにいじめ加害者に対しては何も言及しない。むしろそういう奴らが反省したと言えば更生して偉いな!と持てはやす。脳に障害を持つ人間ができないことがあると言えばそれはお前の努力不足だと説教もしてくる。

こういった人間は心に余裕を持っていない奴も多いのだろう。心の余裕があれば傷ついて前を向けない人間にさっさと死ね社会の迷惑だなどと言うような暴言を言ったりすることもないはずだ。

もしくは恐ろしいぐらい鈍感か同じような状況に陥ったことがないために相手の気持ちを無視して強く出てしまうのかもしれない。それで自分はしっかり生きているのにこいつはいつまでも引きずってなんなんだイライラする説教してやる!という考えに至ってしまうのだろう。だが、私は自分がまともだと思い込んで相手をただ説教したり非難したりする人間とはニートを経験した私から言わせれば、正直言ってお近づきになりたくない。

私はそういった人間の方が傷ついて前を向けない人間よりもはるかに弱いと思うが。

弱いと言われている人間でも強い部分はある

さて、ここで弱い人間について考えてみる。ただ弱いと言っても種類はたくさんある。精神が弱い人間、力が弱い人間、頭が弱い人間など考えてみると様々な種類がある。

しかし、人間すべてが弱い個体なんてそんなにたくさんいるのだろうか?私は現代の要素に適合していないだけで実際には生かすことのできる強みを持っている人間はそれなりにいるのではないかと思う。例を挙げれば、慎重さ。スピードと正確性を両方欲しがっている現代の社会では臆病と一括りにされてあまり生かせない要素ではないだろうか。

つまりは強い要素を持っていても社会の欲しがっている能力と一致せずに苦しんでいる人ってかなりいると思う。私も女子キャラクターの事については詳しいと思っているが、一般社会では気持ち悪がられ犯罪者予備軍扱いされるプロでもない限りは人の役に立たない要素である。おまけに表現規制で騒がれているので明日があるかどうかもわからないジャンルだ。

何も才能がないと嘆く人はよく見かけるが、私はこのうちの大半が社会と適合しない部分でそれなりに高い能力を保有しているのではないかと考えている。それでもその能力を生かせる道がないのなら、結局無駄でしかないと絶望してしまうのもおかしいことではない。

ただ、明日か一週間後かはるか先の未来になってしまうかもしれないがその能力を生かすことで社会貢献ができる世界になる可能性があるということも頭の中に入れておいてほしい。

人間の生きる資格は強さや弱さでは測れないと思う

そもそも人間が生きるために強くなければならないのだろうか?もしそうだったら、年3万人いると言われている自殺している人間はもっといるはずだ。社会は競争で満ちている。競争に負けたものがすべて自殺しているのなら日本の人口は1億人を切っているはずだ。

私は人間は強さ弱さにかかわらず無条件に生きていても良いと思う。

人間という生物は弱そうな個体を見つけ出して勝手に弱者認定をしていじめを実行する。いじめを受けた人間が転校や自殺などでいなくなれば、今度は別の弱そうな個体を探してまた同じようにいじめを行うという行動が本能に刻まれていると言われている。つまりはどのように対策をしたところで人間が進化でもしない限り弱いものいじめは起こり続けるだろう。

だが、生きるということに強さという資格が必要なのであれば、私なんかは死んでいなければおかしいことになる。それに自分は仕事もでき、自信を持って生きていられるから強いと思っている奴らは自分がそのような立場に陥ったことがない+陥ることがないという考えを盲信しているに過ぎない。自分が明日会社を首になることなんか考えたこともないだろうし、

つまりは弱い者が生きていることには非難する側が相続力の足りない馬鹿なだけで、実際は何の問題もないのである。それに社会保障は困っている人間のためにあるものだからどんどん申請していいと思う。私も障害者手帳の3級を持っているが、それなりに役に立っている。

強くなければ生き残れない。そんなのは想像力の足りない馬鹿の使う妄言に過ぎない。弱くても死ななくていいし、そう思っていても自分の体のどこかに強みは眠っているはず。それを探して無能は死ねと平気で言う強者のふりをした弱者をあっと言わせてやればいい!

生きる資格は人の強さ弱さで決められるのではなく、個人が無条件に持っているものだと私は思う。

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