世界のどこにでもいる人を見下して馬鹿にすることによって優越感を得る人間。馬鹿にされた人は何を言われても気にしない人間を除いて傷つく。逆にこいつら側は他人は自分よりも劣っているなどと言うような考えに浸り余計につけあがるようになっていく。
私はこの事態を個人同士の問題では済まされないことだと思っている。言った方は自分のストレス解消にもなって心地よいかもしれないが、言われた側は余計にストレスをためてしまい、そこから精神に異常をきたすことが多い。私から見ればそういう人間を「世界には色々な人間がいる」の一言で流してしまうのはおかしいと思っている。それを言うのなら私のような頭がおかしくて気持ち悪い人間に限っては相手の精神が擦り切れるぐらいになっても色々な人間がいるで済まさなければおかしい話だ。
今回は私が人を馬鹿にする人間について書いていこうと思う。
人を馬鹿にする人間は人格レベルの低い連中
なぜ人を馬鹿にして傷つける人間がいるのか
そもそもなぜ人を馬鹿にして傷つけるような人間が存在しているのか。それはそのような人間が発生しやすい環境のせいであると思っている。支配者がいる環境やイライラしやすい環境にいればその環境に影響されて攻撃的になったり性格がどんどん腐っていく。
これはいじめ発生のメカニズムがよく似ていると思う。まずクラスのDQN人間が腹いせなどで同級生をいじめはじめる。そのうち取り巻きが増えいじめの構造は瞬く間に一対多になる。しばらくはDQN人間とその取り巻きだけがいじめを行うが、次第にいじめに加わっていない人間にお前も参加しないと次のターゲットにしてやると脅す。脅された奴が犠牲になりたくないからといじめに加わる。そいつはいじめという行為が次第に楽しくなっていく。最終的にはクラス全員が敵になり、いじめ被害者が自殺する頃には最低人間だらけの教室が完成する。
この様に元々悪の気質を持っていないような人間でも環境次第では簡単に悪者に変貌してしまうのだ。悪者に変貌しないのは周りに流されず何が起きても気にしない人間ぐらいだろう。人間は非常に醜い生き物である。どれだけ善良に見える人でも悪の心を持っていないわけではないのだ。
上記の話で出したDQN人間のような人間は元々悪い心を持っていた。これはなぜなのか?それは
その人間は元々の人格レベルが低いか幼少期の環境が悪かったかのどちらかなのである。
元々人格レベルの低い人間は幼少期の時点ですでにいじめ行為を行っている事が多く、自分が悪いことをしているということには一切気づいていないことが多い。なのに馬鹿にされる被害にあった人にはそのことを周囲に話しても「強くなればいいだけだろ」、「そんなんじゃ生きていけないだろ」という言われた人間のことを何も考えていないような言葉が投げかけられるばかりでさらに傷つく。これって何も対策しなくていいんだろうか・・・こんな状況では日本の民度が下がっていくばかりのような気がする。
言葉で人を傷つけることは犯罪行為にしてもいいと思う
言葉の暴力は物理の暴力以上に人の心を傷つける。言った方にはほとんどダメージがなくても言われた方は場合によっては生きている間一生苦しむ可能性だってある。だが、このようなことを嘆けばいつまでも昔のことを引きずるんじゃないなどと怒られる。
人はどれだけの理不尽な仕打ちを受けようが前を向いて生きなければならないのだろうか?悪意なく言った一言でも一生引きずる人間はいるのである。何度も言葉で傷つけられた人間は次第に人間が嫌いになって話をすることすら難しくなっていく。それならどうすればいいのだろうか?
私が思うのは暴言は言葉の暴力として犯罪認定してしまえばいいと私は思う。
なぜなら暴言は人を思いやって言う言葉ではなく、人を傷つけて自分が優越感を得るために発言する言葉であるからだ。暴言を言われて喜ぶのはいわゆるマゾヒストの人間だけである。それにマゾヒストの人間はそこまでの数はいない。暴言をかけられた後に残るのは傷ついた心と嫌な思い出、ストレス、そして憎しみや恨みである。
犯罪認定は言い過ぎかもしれないが、これぐらいしないと何気なしに暴言を吐く人間は反省しないだろう。いじめと同じで加害者側は自分が悪いことをしているという認識が薄いから、犯罪扱いにでもしない限り自分が悪いことをしたと一生思わないだろう。だが、現実は非情なり。憎まれっ子世にはばかるとあるように加害者はなぜか擁護される。私はこの言葉のような加害者を増長させるような言葉が存在すること自体が許せない。
だが、何気なしに暴言を吐く奴はこれだけは覚えておけ。その何気ない一言が一生の傷になる人もいるのだということを・・・暴言吐かれて苦しんだりトラウマを抱えたりする人たちは弱いんじゃない。むしろそのような暴言を本当に弱いのはお前ら暴言を何気なしに言える奴らだ!