運動嫌いを作る「負けたら責める」の仕組み

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以前、私はほぼすべての運動が嫌いであるという記事を書いた。私が運動嫌いになった原因は運動会で優勝できなかったことや普段の体育で「お前が運動できないから負けた」責められたことだと書いた。おまけに私は代謝が良い上に暑さに弱く、少し運動しただけで大量に発汗してしまう体質まで持っていてそのことも責められたことがある。制汗スプレーなどすべて汗で流れ落ちてしまい役に立ったことがないし、学校に風呂やシャワーなんてあるわけがない。

これらの事を指摘され続け、結局私は運動嫌いになってしまった。何度も言っているが今では運動することだけでなく、運動会が行われているのを見るのもつらい。最近では運動会を春に移動させる学校が増え、私の誕生日である5月末の辺りで運動会をやってるのを見るとさらに辛さが増す。今日はこの「負けたら責める」が運動嫌いを作り出す仕組みについて書いていこうと思う。

運動嫌いを作る「負けたら責める」のメカニズムについて

「負けたら責める」のメカニズムは運動会や体育祭だけで発生するのではない。集団がチームを作って優勝や勝利を争うことであれば必ず発生する。例を上げれば合唱祭。クラス全員が優勝を目指して団結するのは同じであるため、これによって音楽嫌いを作ってしまう可能性もある。最も身近なのは体育の授業。これもクラスを半分ほどの人数に分けてサッカーや野球などの試合をさせる。この体育の試合ですら勝利にこだわり、試合で足手まといになる運動音痴への対象になるである。
以下に体育の授業を例にした場合のメカニズムを記述する。

最初のチーム分けで運動できる人間が主導で行うメンバーを選びで運動できない人は最後まで売れ残り、引き取らなければならなくなったチームの人間に最悪と言われる。

サッカーや野球などの試合でうまく活躍できず、自分のチームが負ける。

運動のできる人間から、「お前のせいで試合に負けたもっと真面目にやれ!」などと怒鳴り散らされる。体育教師からのフォローは当然なし。

運動が苦手で必死にやっている自分から見れば、なぜこんな意味もない上に表彰されない試合で怒鳴られなければならないのかと思い、運動への嫌悪感や説教をしてくる運動好きの人間に反発心が生まれる。

次の体育の時間でも同じようなことが繰り返され、説教の回数が積み重なっていくうちに運動嫌いになり、運動するだけでイラついてしまうようになる。

今の体育や運動会は運動好きによって作られているもの

正直言うと今の体育や運動会は運動好きの人間によって作られているものだとしか言えない。運動嫌いの人間がスポーツをやる進路に進もうとしたり、体育教師になろうだなんて考えたりするだろうか?運動が普通にできる人間ができない人間の気持ちが分かったりするだろうか?これは運動以外の分野にも言えることだが、

「なんでこんなこともできないの?」という言葉は思っていたとしても実際にできない人に対して言ってはいけないものであると言える。

人間には得意なもの、不得意なものがそれぞれ違っている。自分ができるからと言って他のすべての人間ができるという認識は持たないほうがいい。○○ができないから責めたりいじめたりしていいなんてことはない。運動のできない人間を追い詰めてとった優勝などゴミよりも価値がないと思う。

もし、運動が苦手で体育の試合で活躍できず、同級生に怒鳴られたり怒られたりしたら、フィールドから出て行ってしまえばいいと思う。私も理解しない運動馬鹿どもに対してブチ切れてそうしたことが10回以上もある。価値のない試合に負けただけでお前のせいだと怒鳴り散らすような人間と一緒になんかいたくないと思う人が大半だろうし、自分の興味をあることを探して、そちらの強みを強くしたほうが幾分も有意義だと私は思う。

これ以上私のような運動嫌いを作らないためにも、運動好きは早急に運動嫌いの気持ちを少しでも汲み取るようにした方がいい。そうでないと、運動嫌いは今後も増え続けていくことになるだろう。こんな単純な事への対策もできないくせに何がスポーツ庁なんか作ってんだよクズ帝国日本がよ。

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