私があまり嫌いな女子キャラクターを語らない理由

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皆様は、様々な作品を見ている中で好きなキャラクターが大半の中、嫌いな女子キャラクターがいるという事はないだろうか。私も当然何人か該当者がいる。そしてこの子は本当に女子キャラクター種なのだろうかと疑うことすらある。とはいえ、徹底的に疑うのはクズくさい行動をする個体ぐらいだが。

私は以前箱推しについて語った時にこのようなことを語ったが、これは好き嫌いがある人間という生き物にとっては避けようのないことなのかもしれないと思っている。しかし私は(サトシとイナズマイレブンの影山やクズキャラを除いて)嫌いなキャラがいてもあまり語らないようにしている。今回はなぜそのようにしているかを書いていこうと思う。

誰かの嫌いは誰かの推し

皆様は誰かの嫌いは誰かの推しという言葉を聞いたことがあるだろうか。そのキャラが自分にとっては好ましくないタイプであったり、腹立たしい行動を取るタイプであったとしても別の誰かにとってはとても好きで推せるもしくは別の視点から魅力を感じ取ることができるキャラだったりすることもあるのである。

私だって、自分の推しを○○さんはクズだの死ねばいいなど言われたら嫌な気持ちになるのは当然である。私の場合、プロフィールに書いている女子キャラクターではない嫌いなキャラはどうしても許すことができない域を超えており、もはや有名レベルにまで浸透している連中なので(特にサトシ)見るのも嫌と感じてしまうので書いている。

しかし、女子キャラクターに関しては研究を重ねて彼女たちが織り成す個性的で独特なその世界を感じ取るための対象だと思っているがゆえに嫌いな子がいたとしても嫌いであるという感情を前面には出さないようにしている。主人公男などに比べて女子キャラクターのファンには繊細な問題も多い。

私が嫌いでもその子が好きな人は世界に大勢いるかもしれない。私がその子の考えに共感できなくても私以外のファンがその子の考えを理解していて共感できているかもしれない。だから私は嫌いな女子キャラクターについては自分の言いたいことを書きまくるこのサイトであってもあまり口に出さないようにしている。

心の中では嫌だなって思っていても口に出すのと出さないとのでは印象も随分変わるのではないだろうか。自分が嫌だと思う子がいるのなら、自分では必要以上に干渉せず、この世界のどこかにいるはずであるその子のファンにその子を推すことを任せておけばいいのではないだろうか。嫌いだ苦手だと思うのは自由なので、推しにするキャラや見る作品を自分で選ぶようにして関わらなければよいのだ。

嫌いで語るより、好きで語れる人間の方が魅力的だ

大体の人の場合twitterのプロフィール欄などに好きな女子キャラクターを書いている人もいるが、嫌いな子を書いている人はあまりいない。嫌いを書かないのは自分が嫌いでも好きな人もいるという事を分かっているのではないかと思うからだ。

自分が嫌いなことで語るのも自分に不要な人間を切り捨てるという意味ではいいのかもしれないが、私から見ればなにやってるんだろうか・・・と思ってしまうし、一歩間違えれば非難や叩きに見えてしまうので、正直私から見れば嫌いを中心に語る人間は全く魅力的に見えないのである。

嫌いで語る人間よりも好きで語れる人間の方が魅力的なのではないだろうか。

好きで何かを語れるようになれば、変人や変態の集合体ともいえる今期作品の女子キャラ達も受け入れられるようなレベルの高い女子キャラ研究家になれるはずである。女子キャラは変人だからこそ好きになれるし面白いのだと同じく変人扱いされがちな私は思っている(とはいえ、私も女子キャラたちに比べればまだまだだが)。

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