人間という生き物は基本的に結果を出さない限り認められることはない。それは社会が競争であり、協調性やコミュニケーションを重視している以上どうしようもないことなのだろう。元々自分を普通だと思っていた私は、それらのことができない自分がおかしいと思っており暴走気味だった幼少期を除いて良い人間のように振る舞って合わせるようにしていたが、それがだんだん苦痛になり、悪い傾向がでるようになったことでいじめや説教を経験して精神を病んでしまうという経緯を持つ。
良い人間のふりをしなければいけなかったこれまで
私が自らが暴君であることに気が付いたのは小学生低学年のころだった。この頃の男児は元気で活発、そして行動がいわゆるガキであることが多いが、私はそんなのが可愛く見えるレベルの問題児だったと思われる。教員が嫌い、周囲と行動は合わせない、キチガイな行動を多発する、トイレに行きたくても行けず漏らしてしまう、宿題のプリントを2枚持って行ってしまい怒られる。そんな日々だった。私は教員に説教されることに次第に恐怖を覚えるようになり、小学校中学年から演技をし始めた。
そう、
いわゆる良い子と呼ばれる学校での理想像の人間の演技を。
実際小学生時代はそれでうまく行った。その演技をするようになってから教員は私を信用するようになり小学校を卒業する頃には優等生とまではいかなくても問題児からは完全に脱却できていた。しかしその分体育や楽器演奏で足を引っ張ってしまうとしつこく怒られたり、時に問題を起こしたり仕事内容ができなければ以前の倍近い説教が返ってきた。私はこういう時は非常に苛立って泣いた。私は普段しっかりやっているのにたった数回のミスでしつこく怒られなければならないのか。学校も教員も大嫌いだという感情が浮かんでは消えた。今になって考えてみればそういうのも私から小学校への考えの押し付けでしかない。それでも憎しみは収まらない。その後中学校でいじめを受けて苦しみ、過食をして体重が増加し、大学に入ってようやく他人の評価を気にしなくてもよいことに気が付く。しかし、解放されても記憶は残り続けるものだ。結局演技によりいじめられる以前からため込んでいた私の中の憎しみが消えることはなかったし、粉々に砕かれた(自ら砕いたこともあった)自信は成功体験を積んでも戻ることはなかった。
他人の目に縛られている人たちへ
私がこれらの経験から考え出した結論は以下のようなものである。
それは、
他人からの評価は価値などないということである。
一見暴論かもしれないが私は普通の人間ができる当たり前のことができていないことも多かったので演技ができなければ問題児であった。
手のかからない良い子のように振る舞い、勉学を普通にこなし運動はほぼ風邪をひかずに出席して乗り切った。しかし結局それで本来の自分を抑圧してしまったことにより就労する際にでがたが見え始め、遂には発達障害であることが判明した。つまり私がどれだけ演技をして良い子で真面目に振る舞っても生まれつき根が腐っているのでいずれはそこでつまづくことが分かっていたいうことである。そう考えれば学校での評価を気にしていた自分が正直馬鹿らしくなってきてしまったのである。評価で苦しみ自殺してしまう人だっている。それに・・・高い能力のある人間でも死んでしまえばそれまでのことはなかったことになってしまう。
他人からの評価で苦しんでいる人はそこから一度離れてみてはどうだろうか。それで説教をしてきたり、幻滅して離れていく人間もいるだろう。そういう人間はその程度の奴だから気にする必要などない。私は今でも人からよく見られようと演技をしてしまいがちな面があり、それが原因で常に苦しんでいる。だから私のような人をもう出したくはない。
他人からの評価はそこまで価値がないと思ってあきらめ、開き直って自分の考えや行動で生きていく。一般的には正しくなくても私はそっちの人間のほうが好きだ。